六地蔵さん

六地蔵さん

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2332

 桃山時代以前の紀年銘のある六地蔵は町内にも幾つかある。そもそもこの地蔵菩薩の梵名は「クシチガルブハ」と言い、五濁悪世から六道の衆生を救済する能化の菩薩であると伝えられている。この六地蔵は北九州一帯に最も多く、県内にも相当数あるということだが、まだ専門的研究がなされていないのでどういうものか判明しない。久留間地区にあるのは永禄4年(1561)に村中で建てられたもので何かの御願成就のためと伝えられている。横馬場のは天文2年(1533)とあり、川上には2つあるが、天正5年(1577)8月のものは妙林禅尼のために建てたと判読される。
今ひとつ、天文14年(1545)正月、佐嘉城が少貳の軍勢に攻められようとした時、城主龍造寺剛忠入道家兼(時に92歳)が綾部(三養基郡)城主馬場頼周の謀略にかかり、そのことからわずか2日間に龍造寺家の柱石と思われる6人が全滅したが、因果はめぐるというか家兼は間もなく筑後から帰城し、同年4月2日頼周、政員父子を逆襲してその首級をあげ一門の仇を報いた。しかもその恩怨を越えて頼周父子を万寿寺と高城寺に葬り手厚い供養をした老雄の武士道美談を残したが、その後、川上地方に異変が続き、これは淀姫神社々頭に悲惨な最後をとげた龍造寺一門のうらみからであろうという風説が生まれたので、この悲劇から30余年を経た天正7(1579)年に里人らがその菩提をともらうために、淀姫神社の境内に六地蔵を建立したものを、後に三の辻から、かいまがりに移したものと伝えられている。

出典:大和町史P.665〜667