古川松根

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古川松根

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■所在地佐賀市大和町
■登録ID2305

 春日御墓所は正面に閑叟公と直大公の墓が並び、その後方に小さな同形の墓があり、これには「古川與一松根之墓 明治四年辛未正月二十一日卒」と刻み込まれている。その背面には辞世と横書きされた下に、
  君ひとり のこしまつりて ふる里へ かへる心の あらばこそあらめ
  今はとて いそぐや終の旅衣 たちおくるべき わが身ならねば
とあり、この主を思う純忠の心がうかがえる。
松根はこの句を残して殉死したのである。
 松根は幼名を英次、後に與一と言い文化10年(1813)10月江戸桜田の鍋島邸で生れた。
その翌年12月に同じ邸内で閑叟公が生れたので、幼少より閑叟公の遊び相手として成長し、その寵愛は老いに至るまで続いた。
 閑叟公が極度の節約を宣言し、自らこれを励行し、時には堪え難い苦痛もあったに相違ないが、それを多芸万能の松根は誠心誠意公を補佐し、諸調度品の整え方、庭造りの意匠まで天才的手腕を発揮して川上の十可亭や神野のお茶屋等簡素な中にも意義あるものを造り出した。この松根の誠は常に公にも通じていたので、公が神野の茶屋でた折った菊を帰りに松根のもとに和歌を添えてやり、それには
  君ならで 誰にか見せん 吾がやどの 垣根にさける 白菊の花
 とあり、詠草に「松根のもとに立ちよりて」とまで記しているのを見ても、公は松根に対して破格の取り扱いをしていたことがうかがわれる。
 又狩りに伴をした時松根が過って落馬したら、公はひらりととびおりて抱き起し「いかが致した」と付近の民家に抱き連れて行って看護した。松根は「勿体ない、何とぞお見過し遊ばすよう」といったが、「その方と余とは、竹馬の友じゃもの、ここで君臣なんかと隔ててもらっては、かえって迷惑致す」といって看護したそうである。松根はこの落馬の傷あとを「殿様の御恩情の記念」といって、一身を常に公に捧げたといわれている。
 明治4年(1871)1月21日、閑叟公の御墓誌銅牌に心魂を傾けて書いた墨汁の残りで、前掲の辞世の和歌と遺言と依頼状を書き、東京麹町永田町の閑叟公終焉の館内にあった舎宅の床の前に端座して、殉死を遂げたのである。

出典:大和町史P.310〜312