大木喬任と山屋敷

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大木喬任と山屋敷

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2304

 大和町大字久池井字春日の浦田に山屋敷という所がある。明治維新の大功労者大木喬任が少壮のころ公務の余暇あるごとにここに来て静かに勉学したと言われている。当時の家屋は8畳2間で、1間は南方に一段高く突出ており、奥に6畳1間と物置があり、玄関わきに炊事場があるという間取りであった。周囲は竹やぶになっていて、ここから眺めると佐賀市はもとより有明海方面から遠く多良の山々も望むことができるという絶景の地である。
正二位勲一等伯爵大木喬任は天保2年(1831)佐賀市赤松町に生まれ、幼名を幡六と言い、後に民平と改めた。幕末には佐賀勤王党として副島種臣・江藤新平・大隈重信らと東奔西走し、版籍奉還には特に功労があった。明治になってからは東京府知事を初め、新政府の要人として活躍し、その後元老院議長、司法大臣、文部大臣などを歴任したが、特に司法大臣としては令名が高かった。伯は又江戸遷都の主唱者の1人であり、東京遷都決定に至る功労者であった。葉隠の雫に『大木喬任は事務をとるに、常に熱心で少しもなまけることがなかったから、岩倉公や閑叟公から大変に重んぜられていた。初め閑叟公に御伴して京都に出かけた時、南白(江藤新平)らと共に時事を慨し、連署して岩倉公に上書し、江戸を東京と改め、速かに遷都せられて治国の基礎を堅くせられんことを願った。
 岩倉公はこれを喜んだ。しかし、そのころは幕府争乱のために、まだ江戸は鎮定しておらなかった。廟議(朝廷又は政府の評議)もまちまちで決定することができず、月日を過して時機を失わんとしたのである。大木はたいそうこれを心配していた。たまたま木戸孝允が長崎から帰って来たので、岩倉公は大木と木戸とに遷都のことを相談せしめた。木戸もその策を聞いて、大いに賛同し異議あるものを排斥した。これから両人は東西に奔走して、ついに遷都に決定したのである。明治元年(1868)9月21日には、文武の百官を随えさせられて、東京に行幸あらせ給う様になった。』(以上要約)
 と、東京遷都への大木喬任の努力が記されている。
 大木喬任は明治32年(1899)6月、年69歳で亡くなったが、その時に臨み桐花大綬章を賜わった。昭和2年(1927)になって、喬任を慕う有志の努力によって、旧宅跡である佐賀市水ケ江(龍谷高校南東、現南水会館)にその記念碑が建設され、今日もなお喬任の偉大なる功績を伝えている。
 春日の山屋敷のあった所は、現在谷口米男氏の宅地内で、大木伯記念会より「大木伯書斎跡 昭和九年六月吉日」と記銘した石柱が建てられている。

出典:大和町史P.299〜301

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