永山貞武(国学者)

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永山貞武(国学者)

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2303

 名は貞武、一名は普、字は徳夫通称を十兵衛と称し、後に寛助と改め宇亭又は二水と号した。幼少のころより藩学で勉強したが、その努力振りは他に比べる者がなかったといわれている。22歳の時に肥後の国に行き、辛島塩井の塾に入って5年間勉学に努力し、立派な学者になって佐賀へ帰ってきた。それから間もなく「国学指南」に任ぜられ、文政12年(1829)には外小姓兼侍講に任ぜられたがその時28歳であった。その後閑叟公が藩主となった直後「奥小姓兼教諭」に任ぜられ、側目付に昇進した。天保11年(1840)に藩主閑叟公と江戸に上り、ついでに東北の諸地方を巡覧して帰り、「庚子遊草」という本を著した。天保13年には手明槍頭兼請役相談役格に進み、天保14年に御側頭となり、閑叟公のために精励恪勤よくその誠を尽くした。その後病気になり辞職隠退を願い出たが許されず、弘化2年(1845)7月30日(新暦9月1日)在職のまま死去した。年44歳の若さであったので誰一人として惜しまぬ者はなかった。惜しい人物を失った閑叟公は、翌年8月哀詞を贈り、供養の費用を支給すると共に禄高も増加した。閑叟公は長い間の弊害が続いた跡を継ぎ、その上本城が火災にかかり、飢饉も度々来て極度に財政困難に陥ったが、藩主となってから10年もたたない間に紀綱は整い、風俗は一変して官制の改革、軍事拡張、学校増設、農政整備等、藩の面目を一新するに至ったのも、貞武の企画経営に待つところが多かった。貞武は又己を持することは厳格で人には寛大であり、家のことはできるだけ簡にし、事務の処理は実に敏捷であった。大事にあえば沈着冷静に事に当たり、小事といえども軽々しく看過することがなかった。加うるに精力絶倫で常に学問の渕源を究めようと努力した。初め朱子学を学び、後考えるところがあって陽明学も兼修した。常に我が国の儒者が世間の事情にうとく社会の役に立っていないことを慨嘆し、熊沢蕃山を手本として身を修め、実用を第一として無用の学問を捨て、簡易を尊び、形式的な面倒臭い手続き等を避けるよう心を砕いた。貞武の文章は文章辞句が明切で有用の言が多く、又時にはしまりのない気ままな慷慨の文を作って読者を激昂奮起させるようなこともあった。天保7年(1836)川崎駅で一橋家の家臣が不敬な事件を起こした時、閑叟公は貞武を江戸にやって密旨を伝えさせた。貞武は慨然として出発の途につき神奈川を過ぎる時一詩を作った。
 既将一死付鴻毛 乗月吟遇金水涛 料理機宜諸老在 腰間笑撫菊池刀
貞武は又体力が衆に抜きんでてすぐれており、時に馬にむちうち剣道に励み、威風堂々、気高く雄々しく自からよく節操を守った。平素は大変貧しかったが、武器は精一ぱいの力を出して買い求めていたという。墓は実相院裏の墓地にあって貞武の業蹟を刻んでいる。碑文は幕府昌平学校教授佐藤担、筆者は閑叟公に殉死した古川松根である。子孫は現在鎌倉市に在住されている。-佐賀先哲叢話-

出典:大和町史P.297〜299