横尾紫洋(志士)

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横尾紫洋(志士)

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2301

 尼寺の春日小学校西側長谷寺に横尾紫洋の墓があり、
 「横尾紫洋先生之墓、先生名は道符字は孟篆姓横尾氏號紫洋通称文輔、享保十九年季甲寅十月十日生、天明四年甲辰十月二十一日卒、春穐五十有一」
 と彫ってある。紫洋は川久保にいた神代氏の家臣で、通称を文輔と呼び、磊落で気節に富んだ勤王家であった。幼少のころ、春日山高城寺の住職について読書の道を学び、後に長門の国の瀧鶴台の門に入って勉学し、立派な儒者となった。当時の皇室は非常に衰微していたので紫洋は何とかして盛んにしたいと思い、有志の者と計ってひそかに計画を立てていたが、幕府の勢が強くついに佐賀へ逃げ帰り春日山に居を構えた。
勤王の大志を抱ぐ紫洋は子弟の教育こそその本をなすものであると考え、子弟を集めて忠君の大義を鼓吹していたが、安永3年(1774)6月、再度藩を脱出して京都に上り、関白九條公から手厚い待遇を受けることとなり、間もなく公の侍講となった。
 ある時、日光の東照宮に参ったが、たまたま徳川将軍の参拝の行列に出合い、その盛大なのに驚き、かつ憤慨して京都に帰った。そのころ京都は大風雨があり、鴨川の水が氾濫して公卿の邸宅はほとんど破壊されていたが、幕府はこれを傍観して顧みなかった。紫洋は怒って何事かをなさんとしたが、藩は心配して帰国命令を出した。しかし紫洋はこの帰国命令に服しなかったので、捕われて佐賀へ護送され、小城郡芦刈村(現芦刈町)永明寺に幽閉された。ここで1年有余を過したが、脱藩の罪名のもとに天明4年(1784)10月21日、この永明寺で斬罪に処せられた。年51歳であった。当時この哀れな最後を惜しまぬ者は無かったといわれ、大和町内の勤王家は尼寺長谷寺に墓を建ててその死を弔ったのである。わが国の俗謡の中の傑作と言われ、全国的に知られ親しまれている次の歌は春日山高城寺にいた時の紫洋の作である。
 「高い山から 谷底見れば 瓜や茄子の 花盛り」
 これは友人であり、儒学者であった古賀精里が幕府に仕えて、自己の栄達を欲したことを嘲笑して作ったものと言われ、高い山に立ってみると、瓜や茄子のような卑しい人間がおごりたかぶっている情ない世の中だと皮肉ったものであろう。
 紫洋の人格は営利栄達を目指すことなく確固たるもので、勤王の精神に徹した人であったという。大正13年(1924)2月11日特旨をもって正五位を追贈され、その忠誠を賞せられた。ついで大正15年(1926)には有志の人々により「横尾紫洋先生之碑」が芦刈町水明寺境内に建てられた。紫洋が春日山で子弟の教育に当たっていたころ、福島村妙見社鳥居の額を書いたと言われ、その額は紫洋が斬罪に処せられたため、藩公をはばかりこれを取り除いたと伝えられている。その額は現在同社に掲げられている。

出典:大和町史P.294〜296