山本常朝と大小隈

  1. 人物
  2. 人物
  3. 検索結果
  4. 山本常朝と大小隈

山本常朝と大小隈

■所在地佐賀市大和町
■年代近世
■登録ID2299

 常朝は佐賀藩士山本神右衛門重澄70歳の時の子で、万治2年(1659)6月11日佐賀城下片田江横小路に生まれた。9歳で2代藩主光茂の御側付小僧となり、延宝7年(1679)元服して権之允と改称し、その後御書物役に進んだ。20歳のころから仏道に志し、当時佐賀藩第一の碩学石田一鼎を下田の閑居に訪れて薫陶を受け、更に松瀬の華蔵庵で湛然和尚の教えを受けた。元禄13年(1700)5月光茂が死んだのでその寵遇に感動していた常朝は追腹をしたい気特で一杯だったが、主君の追腹禁止令を犯すことはできず、殉死の志を満ししかも藩令に背かない出家の道を選び、金立の黒土原に閑居した。田代又左衛門陣基は延宝6年(1678)に生まれ源七と称したが、後光茂に仕え祐筆役となり、元禄9年(1696)19歳の時藩主綱茂の祐筆役にもなったが、宝永6年(1709)32歳で御役を免ぜられた。翌年3月始めて常朝を黒土原の草庵に訪れた。その時常朝はすでにここでの生活が10年経っていて、これから享保元年(1716)まで前後7年間にわたって陣基は常朝の談話を筆記し、享保元年9月に脱稿したものが「葉隠」である。7ヵ年の前半は黒土原の宗寿庵で、後半は大和町大小隈で筆記している。常朝は9歳より光茂逝去まで側近に仕えること30余年の間、常に「我一人にて御家を荷う」という葉隠の精神で忠誠を尽くし、神仏を信仰することも厚く、国学や武芸にも達し、和歌・俳句にも堪能であり「愚見集」を書いて奉公の心得を諭した。光茂夫人霊寿院は黒土原(金立町)で夫君の菩提を弔い、正徳3年(1713)ここで逝去した。その遺志によってこの地に葬られたので、常朝はその墓所をはばかって、同年10月13日大和町大小隈に庵を移し、享保4年(1719)10月10日61歳でここに歿した。この辞世の句に
尋ね入る深山のおくの奥よりも   しづかなるべき 苔の下庵
虫の音の よわりはてぬるとばかりを   かねてはよそに 聞きて過ぎしが
 とあり、墓は佐賀市鍋島町八戸の龍雲寺にある。田代陣基は葉隠を脱稿した後再び祐筆役となり、寛延元年(1748)に年70歳で歿した。陣基の墓は佐賀市東田代町の瑞龍庵にある。
 大小隈は今日通称「でゃーしょうぐま」と呼ばれていて、敷山神社跡より東北約300m余り、
大和町礫石の古川八太郎氏宅北方の柑橘園で、東を流れる小川(金立町との境)の傍らの柿の木も、庵跡に建っていた付け木(薄い板の両端に硫黄を塗り付け火をたきつける物)工場も、硫黄を砕いたと思われる水車も今はなくなって一面の密柑畑と化しているが、東に迫るような雑木山と清らかな小川のせせらぎは昔の面影をしのばせるものがある。

出典:大和町史P.290〜292

地図