六地蔵

六地蔵

■所在地佐賀市大和町
■登録ID2190

一石に六体の地蔵を彫りつけた六地蔵やその上部に六観音を彫りつけた六観音六地蔵は大和町内に多く見かける石仏である。特に寺や墓地等に建てられている。六地蔵尊像はいろいろの種類があるが普通、
(1) 地獄−大定智悲地蔵−左手宝珠、右手錫杖
(2) 餓鬼−大徳清浄地蔵−左手宝珠、右手与願印
(3) 畜生−大光明地蔵 −左手宝珠、右手如意
(4) 修羅−清浄無垢地蔵−左手宝珠、右手梵篋
(5) 人間−大清浄地蔵 −左手宝珠、右手施無畏
(6) 天上−大堅固地蔵 −左手宝珠、右手経冊
の姿をしており、亡者が六道にあって良い世界に生まれ変ろうとする苦しみを救ってもらうためそれぞれの地蔵に願う現われが六地蔵となっている。町内で紀年銘のわかっている古いものは次のとおりである。
横馬場光明寺(廃寺)跡天文2年(1533)今山徳運寺(廃寺)跡 天文3年(1534)7月、久留間蔵福寺境内 永禄4年(1561)川上宿裏(北側)天正5年(1577)8月、同(南側)六観音六地蔵 天正7年(1579)
観音、地蔵合体の信仰は鎌倉中期ごろから行われていたといわれるが、この種のものは外に駄市川原の北村天満宮境内、玉林寺境内、上戸田宝円寺境内、大願寺公民館東側等に見られるが探せばもっとあるだろう。池上地福寺境内の六地蔵は角柱で、正面と裏面に2体ずつ両側面に各1体が彫られている。
六地蔵建立の趣旨は、多くは2世安楽や冥福を祈念したものである。個人で建てたりあるいは久留間や水上の六地蔵(享保9年=1724)のように「村中」で建てたものもある。川上宿裏にある天正5年の六地蔵は妙林禅尼のためと判読され、天正7年の六観音六地蔵は天文14年(1545)正月、淀姫神社境内で謀殺された龍造寺一門(家純、家門、純家、その家来達)の霊を慰めるために建てたことが定説のようになっていたが、石柱を見ると「天正七稔、為道縁禅門、十七回忌、十一月廿七日」の刻字が判読される。この年忌を逆ると永禄4年(1561)に相当し、この年は都渡城、川上宿一帯で神代勝利と龍造寺隆信の両軍が決戦した年である。この戦に関係あるかどうかは不明だが、今までの言い伝えとは関係なさそうである。この六地蔵は始め淀姫神社の境内にあったものを宿裏三方道に移し更に現在の地に移し変られたものである。

出典:大和町史P.556〜558