河上社造営

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河上社造営

■所在地佐賀市大和町川上
■年代中世
■登録ID2116

 応仁の乱(1467年以来11年間、京都を中心に続いた戦乱で京都は焼野が原となった)以来河上社の御神体は仮殿に奉納したまま荒れるに任せ雨もりさえなおす人はいなかった。
 肥前国賀世庄(今の嘉瀬町か)に蓮乗院増純という僧がいた。この僧は後に元亀3年(1572)実相院35世として、元亀戦火後実相院再興に活躍した座主である。河上社の荒廃を嘆き一念発起してその復興に寝食を忘れ活躍した。永禄の年(1558〜1570)増純は仮殿にこもり、塩絶ち・米絶ちして当宮造営の祈願をした。17日夜疲れて夢うつつの時、容顔麗しき天女忽然として夢枕に立ち「殊特妙好なる大願を思い立ちたるものかな、我感喜に堪えず……」と称して粟の一穂を与えられ夢がさめた。増純は不思議に思い、神の加護を信じ、この善願を達成する事こそ神に報ゆる道だと誓った。早速大工に命じ建築を始めた。信者の奉仕も多く資金も集まった。大宮殿、末社の宝倉、端門、西門、拝殿、鐘楼、本地堂、御穀屋、衝門、瑞籬、講堂に至るまで黄・黒・朱のうるし塗りで飾り「絶妙の壮厳、奇麗の壮観測り難く」とあるから余程立派な河上社が完成したに違いない。5、6年間に建て終わり遷宮供養まで勤めている。造営の当初材木を物色して山々を探し求め、ついに小城郡今山(大和町今山)の地に樟の大樹を発見した。幹の周りが10人でまわしてもなお余ったという大樹であった。この1本で造営を成しとげ得たことは、神助の加護と増純苦行の賜だと結んである。この結構な建物も数年後の元亀元年(1570)には大友軍によって焼かれた。現在残っている西門は樟材の柱とその一部が原材で、他は数度の修理によって杉材等が使われている。(実相院文書より)

出典:大和町史P.210〜211

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