於保天満宮

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於保天満宮

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■所在地佐賀市大和町於保
■年代中世
■登録ID2110

保元元年(1156)保元の乱が起こり、京都の町は不穏の状態に陥った。於保氏の祖である藤原実遠はそのころ京都内裏北門堅衆の任(御所警備役)に就いていた。彼はこの不穏な政情を心配して、1日も早く平和が来るよう北野天満宮に祈願を続けた。後白河天皇はこれを聞かれ痛く感激されて、実遠の本国へ天満宮をまつるよう御内命になった。そこで実遠は北野の神を勧請して於保村北野の地にまつった。又天満宮を勧請すると共に菩提寺として長禅寺をこの地に開基した。元亀元年(1570)今山の陣の時於保家は亡び、龍造寺隆信がこの地を支配したが、後にこの城(館)跡に天満宮を遷して現在に至っている。
 館の周囲は堀がめぐらされていたようで、今では道路になりあるいは田畑に変わっている。後年火事のため焼けた長禅寺も再建されることなく廃寺となったが、場所は於保氏墓の南方一帯のようである。長禅寺に保管されていた天満宮由緒も焼失してしまったが、寛政年間(1789~1801)佐賀藩士於保作左衛門方に存在していた文書によって明らかになった。建長7年(1255)のころ、於保三郎宗益は法名を進仏と号し、大和町於保並びに佐賀市鍋島町増田を領し肥前執行職となった豪族で河上社遷宮奉行をも勤めている。
 宗益の孫於保四郎種宗は法名を心教と号し、弘安の役(1281蒙古軍との戦)に軍功をたて弘安6年(1283)肥前国執行職として肥前国を治めた。
於保種宗の所領注進状の中に
一、於保村仮名安松代々令勤仕御家人役地也とあり、種宗は鎌倉幕府の御家人でこの地の領主地頭であった。於保の地を安松名ともいっていたことがわかる。種宗の孫於保五郎宗喜は法名を良教と号し、元弘3年(1333)5月官軍に加わり、九州探題北條英時を博多に攻め負傷した。頼朝以来140年で鎌倉幕府が滅亡した前年である。翌年建武の新政といわれた天皇政治が始まるのである。
 宗喜8世の孫於保馬太夫資宗は永正2年(1505)5月、横辺田(江北町小田地方)の戦で戦死し、その子因幡守弼親は天文3年(1534)8月3日、大内氏と龍造寺家兼(剛忠)との戦で戦死し、法名を盛用良誉と号した。於保の館も亡び一家没落の悲運時代である。しかし弼親の大叔父(祖父鎮宗の弟)である備前守胤宗は妻が龍造寺家兼の娘であるという姻戚関係から天文14年(1545)正月16日家兼が多久城を攻めた時これに参戦し、志久峠の戦で討死したが、その軍功によって於保家もまた再興した。
 胤宗の子八戸右衛門太夫宗益の時、於保の館も再興され天文20年(1551)天満宮も再興した。
 宗益の二男宗暘は八戸を領し八戸下野守と称した。少弐氏・神代氏と結んでしばしば龍造寺氏を苦しめていたが、元亀元年(1570)今山の陣で大友八郎親貞の先手に加わり今山にいたが、深傷を負い山内にのがれ内野で死んだ。
 宗暘の妻は隆信の妹でその幼児に飛車松と称する者がいた。隆信はこれを殺そうとしたが、飛車松の祖母であり隆信の母である慶誾尼はふびんに思って命乞いをしたため一命が助かり、後に叔父に当たる八戸九郎次郎光宗の養子になった。後の龍造寺彦兵衛入道宗春である。
 因幡守弼親に3人の男子がいた。長子は藤太郎乗忠といって晴気山伏の養子になり蔵徳坊といった。天正12年(1584)島原の合戦で戦死した。二男式部太夫賢守は須古の戦で負傷し、そのため元和7年(1621)死去、法名を賢守宗聖居士と号した。子孫は長く鍋島家に仕えた。
 大和町於保一帯を領した於保氏は平安時代から中世に至る400年間にわたり、あるいは地方に君臨し、時には悲運を迎えるなど戦国の世の常とはいえ栄枯盛衰の時代であった。現在、天満宮(館跡)の西南の地に因幡守胤景以下の墓石が列んでいるが、数百年の歳月を経た墓地は荒れ放題でまつる人もないまま放置されていたが、これを憂えた現円通院於保禅機氏により時折り供養されているに過ぎない。

出典:大和町史P168〜170

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