実相院

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■所在地佐賀市大和町大字川上947
■年代古代
■登録ID2108

真言宗で本尊は薬師如来である。寺伝によれば開山は元明天皇の和銅5年(712)僧行基が実相院の西北方岩屋山に草庵を建て「神宮寺」と称し法相の布教に勤めたのが始まりだとされている。それから377年経過した寛治3年(1089)8月、河上神社の社僧円尋が実相院裏山一帯の荒地を開墾し一宇の房舎を建て河上山別所と称し、薬師、弥陀二仏を本尊とした。円尋は行基より49代、天台宗の僧で、ここに一宇の僧堂を建ててから如法経会を始めた。円尋を第1世として時に多少の盛衰はあったが次第に栄え宏壮な仏閣も建てられた。
 寛治5年(1091)の河上社文書に
 当寺の境域は
東限 大川
西限 神宮寺の登り道
南限 屏風岩
北限 鮎返河岸
とあり、行基が神宮寺を建てた岩屋山がどこであったかはわからないが、恐らく今日「上宮さん」と称して川上地区民より〆繩を張り、年一回の祭礼の場所(岩石多し)がそうだとすれば、現存する実相院所有の山林と近接している点符合する。実相院の山主は河上山座主と称し、河上神社並びに実相院の一切の権限を掌握していた。この座主職をめぐって平安初期から鎌倉末期にかけ争いが起きている。
○ 永久2年(1114)河上社の住僧静心が神埼庄の庄官と話し合って、神埼庄の定額僧であった僧堪秀律師(第2世)の座主職を横領したが、白河院庁はこれを許さなかった。
○ 文治2年(1186)神埼庄の庄官で、この地方でも随一の在地領主で、甘南備城主でもあった河上社の大宮司高木宗家は、謀計あるいは無道をもって僧春勝(第6世)の座主職を横領した。この争いは間もなく院庁下文によって宗家の横暴が止められたが、7か年間続いた長い争いの結果、春勝より田地17町を譲り渡すことで座主職は春勝に戻った。
○ 元弘2年(1332)第12世円雅座主の時、大宮司高木家直と社務管領権争いが起きた。大宮司が主張している関東下文も鎌倉幕府の衰退と建武の成立によって挫折した。
※実相院お経会
 如法経略縁起に「天長頃最澄神足円仁嘗在四明北かん(谷)屏居修練。以石墨草筆書写金文蔵之小塔。置一庵名如法堂(以下略)とあり、天長年間(824-834)、天台宗開祖最澄の弟子円仁(後の慈覚大師)が法華経を書写して小塔に納め、庵を建てて如法堂と名付けたと記され、更に次の事が書かれている。
 円仁(延暦寺第2世慈覚大師)が40才の時の天長10年(833)に重病にかかり余命が長くない事を知って、比叡山の北谷に草庵を建て、ここにこもり心静かに臨終を待った。ある夜のこと、天人から薬を授けられそれをのんだ夢を見て以来病気が快方に向かった。
そこで彼は「四種三昧」という一種の天台の禅定法を行い法華経八巻を書写し、それを小筒に入れて如法経といい、そこに一庵を造ってこれを納め如法堂とよんだ……と。
 これ以来如法経が始まり納経も行われている。実相院のお経会は堀川天皇の寛治3年(1089)河上社の社僧円尋が如法経会を始めた。その儀式は天台の禅定法を行い、法華経を書写して経筒に納経している。こうした儀式が今まで約880年間続いている。元亀元年(1570)兵火にあい、建物は焼失したが如法経会の中断を恐れて焼跡に仮寺を建てお経会を営んだとある。寺地を現地に移転し寺院を再建したのが元亀3年(1572)で、これ以来の末代過去帳が残されている。400年間のお経会の唯一の記録でお経会を中断したのは元和8年(1622)みやき町千栗八幡社対河上神社の一ノ宮争論の時と、寛永15年(1638)有馬原城合戦の年の2回だけである。
 法会の儀式は厳粛で、声明(お経のふしづけ)法式(儀式)は実相院独自の創意を加え、その歴史の古さと宗派の区別のない信徒を有することは恐らく全国まれにみる大法要といえよう。
 お経会の行事  毎年4月9日午後から始まり20日までで終わる。
 4月9日午後 禁酒入りの式、以後経会中職衆(僧侶)は断酒する。
10日 道場清め式 御輿内に一字一蓮の法華経八巻を納める
11日 当山中興良瑞僧正以下先師法要
  12日 大般若経飾り
  13日 大般若経転読会
  14日 午後2時半から経紙清め式(川上川にて)
  15日 お経水汲み式(写経の水)経筥渡し式
  16日 立筆式(写経の書き初め式)
  17日 書写経(法華経八巻)
  18日 午前中写経 午後写経巻き
  19日 経筒納め式 御輿内の一字一蓮の法華経八巻ととりかえる。
  20日 お経送り 経塚納経
 20日の法要は前日までとすっかり変わり、当山座主が大導師となって、厳かな法要が行われ、過去帳の奉唱回向が数時間続き、終わってお経送りとなる。10日の晩の法要から15日の晩まで、毎日初夜(夜)、後夜(朝)、日中(昼)と1日3回約2時間お経があがるが、16日から19日の日中まで日中(昼)初夜(夜)との2回になる。お経ごとに入浴して身を清め、湯上り用の白衣で水気を落し(タオルは使用しない)経会専用の白衣、麻地黒色の法衣を着け、袋足袋、草履をはいて入堂前に「惣陀羅尼」というお経を三たび唱えて入堂する。講堂は竹格子の内側に網が張りめぐらされ職衆以外の人の入堂は禁じられている。

出典:大和町史P142〜144、148〜150

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