大詫間の成立 | さがの歴史・文化お宝帳

大詫間の成立

所在地 佐賀市川副町
年代 中世
登録ID 2097

出典資料から記載

 筑後川河口の大三角州は、橋が出来るまでは、1つの島をなしていた。
北半分が福岡県大川市の大野島、南半分は佐賀市川副町大詫間島で、所属する県を異にするばかりではなく、近世までは大野島は柳川藩、大詫間島は佐賀藩と歴史・民俗・言語、あるいは経済的視点にたっても、それぞれ異なった特徴を持っている。
地理的には一つの島でありながら、総称がないため、マスコミあたりでも、しばしば1島の名のみ記して、全島をあらわす誤りを犯すことがあった。だが、この大三角州ははじめから1つの島として発生したものではない。はじめ二つの島が出来、のちに結合したもので、そこには江戸時代の封建治下における長い間の争いが今日に至るまで、その片鱗を各所に残すことになった。そのもっとも顕著なるものは「通り柴」と称される不自然なしかも興味ある福岡・佐賀両県の境界線である。大野島はその位置からみて、大詫間島より時代的に早く生成した。この島の成立については、昭和44年9月、九州農政局有明干拓建設事業所が編纂された「有明干拓史」を参考として抜粋記載させてもらった。
【大詫間島の生成と境界問題】
慶長年中肥前国絵図によれば、筑後川河口の大三角州は全くその面影はないが、それから約90年後の元禄14年肥前国絵図(1701)をみると、巨大なデルタが現われて大多久間村長さ28丁横13丁と記載されている。したがって同島の生成と干拓地および集落の発生は、慶長年間から元禄に至る約100年間であると言うことができる。
しかしなお古来の伝承や古文献、遺跡などの資料を詳細に検討して、この問題を究明することにする。
特に大詫間干拓の端緒は、後述する如く有明沿岸における佐賀藩随一の商人請負新田であるばかりではなく、筑肥両藩争奪の場として、極めて興味ある歴史的経緯を蔵しているからである。
伝承によれば、同島付近は天正のころ(1573〜1591)は松枝沖と称していたが、その名称の起原は筑後川の大洪水の後、川口の浅瀬に松の巨木が横たわっていたことに因るとつたえられている。しかし思うに同島は当時松枝村(三根町の松枝集落)の沖合いに当たっているため、松枝沖の名称が生じたものと推考される。
 既に述べた如く、元来この大三角州は最初2島として出現したもので、北部の大野島は慶長6年(1601)筑後藩士津村三郎左衛門が数十町を干拓したのが端緒である。しかし南部の大詫間島は、同地の八大龍王社記に述べるが如く「既に文禄年中(1592〜1595)に中州が現われ、鍋島勝茂公は龍王の神石(ほこら)を建てて先占を示し、自後その神石(ほこら)を中心として泥土堆積す」と記し、また「元和9年(1623)改めて八大龍王の神祠(かんし)」を建立し、寛永のころ干潟益々成長し両藩の境界争奪盛んに行われる。」と記しているところ見ると、文禄のころ(1592〜1595)は小潮時には満潮においても常に露出する程度に成長し、3・40年後の元和・寛永(1615〜1643)のころは既に部分的に陸化した結果、龍王の神祠(かんし)が建立され、肥筑両藩の境界争奪が激化したものと思われる。
しかしその当時の筑後藩は関が原の役に石田三成を捕えて大功を立てた田中氏は改易され(元和6年:1620)、その代わりとして、一時筑後の地を失脚して逆境にあった立花宗重が再び柳川城に復帰したのであるが、かくの如き肥筑両藩の情勢の変化は、この境界問題にも顕著に影響し、従来と異なる肥前側(佐賀藩)の積極的な態度の結果、正保年間(1644〜1648)に和議が成立して、2島の北部大野島は筑後藩(柳川藩)に南部の大詫間島は肥前藩(佐賀藩)に属することになった。
この境界決定に際しては、北茂安町千栗(ちりく)八幡の神幣を柴の小枝に結着して、潮の引きがけに上流から流したところ、偶然にも二島の境を流れる澪(みお)(江湖)を通って流れた結果、この江湖を両藩の境界とすることを決定の上、神かけてこの境界を侵さざるの宣誓をなす意味において、かかる神事が行われたものと思われる。
この江湖は10余年前までは葦の繁茂した幅2m余りの小溝渠と化し、大野島から大詫間に至る村道の石橋の両側に小柴が植えられて、300年以上前の歴史的神事を物語るとともに、地名を「通り柴」
と称して、今日においても佐賀、福岡両県の境界となり、小溝渠は浚渫されて、大詫間の幹線水路となっている。
出典:「大詫間・大野島 今昔」ひとつの島に二つの文化〜福岡 博氏講演会資料  昭和44年9月 九州農政局「有明干拓史」

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