龍造寺隆信

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龍造寺隆信

■所在地佐賀市川副町
■年代中世
■登録ID2061

(1529−1584)
 鹿江の威徳寺には龍造寺隆信が使った槍、陣太鼓や肖像画があり、早津江の志賀神社には隆信が使った軍旗が古くからある。また新しく犬井道戸ヶ里先のアカシドウには隆信の石像も建った。戦国時代の英雄であった龍造寺隆信と川副町の因縁は深い。
 龍造寺の先祖は藤原鎌足という。その子孫の藤原季喜が源為朝に従って九州に西下し、小津郷(現在の佐賀市)の龍造寺村に住んで龍造寺の姓を名乗った。この季喜から15代目が龍造寺隆信であり、享禄2年(1529)2月25日水ヶ江館に生まれた。現在佐賀城南、中ノ館に隆信の誕生地記念碑と袍衣塚が建っている。父は龍造寺周家、母は本宗胤員の長女。隆信は幼名を長法師(千代法師)といい、天文4年(1535)宝琳院に出家。同14年正月3日、馬場頼周らの謀略から父の周家はじめ、村中、水ヶ江にいた龍造寺一門の六将が川上と祗園原で戦死し、翌天文15年3月10日には曽祖父の家兼が93歳で老衰死をしたため、家兼の遺言で宝琳院にいた長法師円月も還俗して龍造寺山城守隆信と名乗った。実際は最初、隆胤と名乗ったが、天文19年、大内義隆の執奏で従五位下に叙された恩顧から義隆の1字を貰って山城守隆信と名乗った。龍造寺家は村中と水ヶ江の2系統があったが、水ヶ江に生まれ属した隆信はこれで村中の主ともなった。
 天文20年、豊前の大友宗麟と内通した隆信の家臣土橋栄益が神代勝利、高木鑑房、高木胤秀、小田政光、江上武種、馬場鑑周、筑紫惟門ら十九豪族のほか有馬、犬塚、多久らの武将とかたらって隆信の弟家信(長信)が守っていた水ヶ江城を攻囲した。このため隆信以下は水ヶ江城を脱出して寺井津から柳川城主の蒲池鑑盛を頼って落ち延び、蒲池の厚意から、前に隆信の曽祖父家兼を匿まった一木村の原野十郎恵俊の家に、300石の扶持をもらいながら匿まってもらったのである。
 隆信をうまく追っ払った土橋栄益は、高木鑑房を水ヶ江城主にまつりあげると共に東の巨勢、北の大財、愛敬島、三溝、多布施、長瀬の五領地に腹心のものを城番として配置したが、八戸と高木を除く所領以外はすべて山内にたてこもった神代勝利の支配下に置かれた。筑後に落ち延びた隆信はその後、家来の福地信重を秘かに遣わして水ヶ城奪還の計画を進めると共に与賀郷や芦刈で同志の獲得につとめた。一度天文21年に芦刈の鴨打胤忠が調達した船でここに上陸作戦を試みたこともあったが、暴風のため、船が有馬領であった杵島郡の柳津あたりまで押し流され失敗に終わった。隆信の再起が成功したのは、翌天文22年7月25日、犬井道のアカシドウに上陸作戦後であった。 アカシドウに上陸した隆信一行が鹿江の威徳寺に着くと鹿江遠江守兼明のほか、すぐ駆けつけた鹿江伯耆守久明、石井石見守、石井三河守の一族と村岡帯刀や副島・久米・徳久・御厨・飯盛・古賀・南里・犬塚・末次など川副、与賀の郷士が参集し、与賀郷の飯盛館を守っていた高木、八戸を攻めるため、鹿ノ子の竜昌庵に陣取った。この鹿江から与賀に行く途中、現在西川副小学校の南側にあるコノイサンにたくさんの軍荷を置いた。この「此荷大明神」がコノイサンの語源であり、祭神は龍造寺隆信ともいわれる。(後藤道雄博士著『新佐賀夜話』)
 その後、隆信は破竹の勢いで高木鑑兼、小田政光を降し、翌天文23年(1554)には三根、養父両郡の諸城、翌弘治元年(1555)には勢福寺城の江上武種を降ろすと共に神代勝利を山内(神埼、小城などの山内)に攻めて筑前に脱走させ、弘治3年(1557)には八戸城の八戸宗暘を攻略、翌永禄元年(1558)には蓮池の小田城を攻めて小田鎮光を降し、永禄2年は千葉胤頼を攻めて陣没させ、また少弐時尚を自仞させると共に馬場鑑周と横岳鑑貞を降すなど連勝を重ねたのである。
 犬井道上陸後、隆信はこうして30年間に毎年のごとく戦争を続けて遂に五国二島の大守となり、薩摩の島津、豊後の大友と九州を三分鼎立する形を作ったが、最後の天正12年3月、島原半島で島津、有馬の両軍総勢1万未満に対し、2万5千から6万といわれた龍造寺勢の戦争で、龍造寺勢が不覚にも大敗し、3月24日未刻(午後2時過ぎ頃)薩摩の物頭川上左京亮に首をあげられた。時に隆信56歳。遺骸は赤松町の龍泰寺に葬ったが、明治4年本庄町の高伝寺に移された。

出典:川副町誌P.973〜P.975