坪ノ上城

坪ノ上城

■所在地佐賀市高木瀬町坪の上
■登録ID1801

 今から約400年前、ここに龍造寺氏の出城(館)が置かれた。現在幟持、青木両氏宅のある地域一帯がひょうたん型の堀割に囲まれていたので、この地帯がそれらしいと思われる。この一帯は北部を北屋敷、南部を南屋敷と呼ばれている。又、正保4年(1647)及び元禄14年(1701)に作られている肥前国絵図には坪ノ上二七二石とはっきり地区名が表示されている。
 このように、坪の上は相当古い時代から、上佐賀の要衝として存在していたらしい。
 明治初年廃藩置県後市町村制が実施される明治22年までの戸長制度時代、県庁の出先機関として坪ノ上に事務取扱所があった。橋富氏の少年時代、前述の北屋敷に、極めて大きな家があったそうであるから、その建物が坪上扱所であろうと思われる。明治9年の西川文書の中にも各戸長から坪ノ上扱所御中とした公文書が2、3通見受けられる。又平尾大塚八郎氏宅には、祖父大塚和平氏宛の公租納金の請取書が保有されている。これは明治10年6月12日ないし明治11年3月11日の日付のある六通の請取書であって、それにははっきりと坪ノ上区務所と明記されており、長崎県四十大区七小区区務所印の公印が押捺されている。
 大正の初め頃までは、村の衛生施設として、村立避病院があった。地区の北部、市ノ江川堤防の南側である。今は跡形もないが、「避病院にやられるぞ」と、皆こわがったものだ。
 天明4年(1784)の佐賀藩の、上佐賀下郷坪上村の絵地図によれば、今の天満宮の外に、安知木(追手木)の東、古河二角という所には、もう一社の天神社があった。この社は相当大きく描かれているが、今はどうなっているか。現坪上天満宮の境内に嫡流社という石祠があるが、あるいはこれかも知れない。
 又現公民分館の北あたりに郷倉があった。天明の飢きんの折、秀島氏の先粗が庄屋をしていて、難民救護のたき出しをしたが、それも間に合わないで多数の死人を出したそうである。そのたき出しもこの郷倉から穀物を出したことであろう。又この絵図には、観音屋敷、曲渕墓地等も描かれている。人家はこの観音屋敷付近に6戸、郷倉付近に15戸、浄満寺は常満寺として表されている。

出典:高木瀬町史P287〜289