平尾天満宮

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平尾天満宮

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■所在地佐賀市高木瀬町大字長瀬2510番地
■登録ID1784

 大字長瀬2510番地、即ち平尾地区の東南端にあり、平尾天満宮は今よりおよそ五百数十年前に越前地方より封ぜられ、一万石を領する平尾の殿様によって建立せられたと伝えられる。又一説には現在の巨勢町平尾天満宮の分神ともいわれる。これは当時この辺一帯が湿地帯であり、その開懇のため巨勢町平尾の人が移住して来たのでその氏神を祭ったのではないかとも考えられる、それでは天満宮の創建はいつ頃であったろうか。参道正面の鳥居には、「天満宮」の額があり、 右柱に
     肥前州佐賀県平尾欽造立
     天満大自在天神宮萃表伏乞
     一天平昂四海大清災禍来爾萬姓安榮
         立石四郎右衛門
         服巻覚兵衛
左柱に 旹享保第五龍集庚子杪夏吉慶辰  松本次郎左ヱ門
                立石兵左衛門
      當村士女
      同村講衆   敬言  
      役士
                槇市郎左衛門
                土 井 茂 介
と記入してあるから、今から255年前のものである。天満宮であるから祭神はもちろん菅原道眞公である。
 この天満宮は25年毎に大祭が行なわれて来た。毎年の祭事期日は旧暦8月25日であったが、大正の初め頃から陽暦9月25日に変更された。そしてこの祭事には必ず奉納相撲が催されることとなっている。旧幕府時代は非常に盛大に行われ、土俵も3つも作られたという。昔は相撲を催すことはなかなか難しい規則があって容易に許されなかったが、ここの相撲だけは特別に許されたということである。かつてある代官は相撲開催の届をとがめたところ、かえって藩公鍋島様から罰せられたという。江戸、大阪の相撲が佐賀地方で興行した時でも、平尾の者だと名乗っただけで大木戸をあけて通してくれたそうである。この相撲には、遠く福岡、長崎、熊本方面からも力士が集って来た。しかし賞品は餅だけであった。このため平尾の餅相撲としてかえって有名になったのである。この日は地区あげて大にぎわいでごちそうにはどじょうじるがつきものであって、親類縁者ばかりでなくよそ者でも上りこんでごちそうにあづかっていたと伝えられる。この相撲も時代の変遷によって、次第にすたれ終戦前後は消防組の人が相撲を取るぐらいになってしまい、現今はやっと子ども相撲が催される程度である。
 明治大正の頃は、小学校の児童全員が参拝し、小餅をもらうのが何よりの楽しみであった。祭の時には、いろいろな出店があったが、このお祭にはよくこまが売り出されて子どものこま遊びが始まるのはこのお祭がすんでからの季節であった。
 天満宮敷地はおよそ600坪もあろうか、4周に喬木そびえ、参道入口に猿田彦大神がある。
 拝殿前には天満神社一千二十五年祭典記念として石造狛犬一対、石像神馬一頭が奉納されている。これらは昭和2年10月当村寄付として奉納され、区長武久米吉外19人の発起人によって浄財が集められた由で、主として平尾区の氏子並びに同地出身の区外成功者の応募者の氏名が刻まれている。天満神社一千二十五年祭というのは、 平尾天満宮の一千二十五年祭でなく、祭神道眞公の没年が延喜3年(903)であるから、祭神の一千二十五年祭のことである。従って天満宮の建立年月日はこれからは推定されない。又明治28年8月建設の燈ろう一対も氏子より寄進されており、大正2年6月25日には服巻作一郎氏よりのぼりざお石一対が奉納されている。
 境内西側には、小堂宇二基がある。北の一宇には観音小路講中、南のお堂には大正7年9月、徳島ツイ、武久カツ、西岡チカらの名前が刻まれた石碑がある。南の方の一宇には例の木起しの地蔵が安置され、又昭和39年3月吉日、功徳主八田吉次と刻まれた観音像及び五輪塔の一部らしいもの二個がある。北側の堂宇には狛犬らしい獣面の臥像に乗った半伽の女人像一体、菩薩像二体、観音像一体がある。
この観音像の背面には
   明治32年7月24日再建 長谷部友雪     徳島喜作
                    西川種近      中島多三郎
                    中村徳一郎     塚本嘉一郎
                    菖蒲久七      水町龍七
と彫刻してある。この観音様は仲代にあった観音様と思われる。明治末期頃まで未だ井戸水が飲料水として利用されない時代には、仲代地区は平尾道路の突き当り市ノ江川の土堤下に清冽な清水のわく井戸があって、それを飲料水として利用していた。三本松方面からも飲料水として水汲みに来ていた。その井戸のどう穴のようになっていた所に観音様が祀ってあった。この水を利用しないようになったために、この観音様も天満宮境内に移されたものと思われる。又拜殿西側奥まった所に弁財天の小堂がある。これは大正13年7月平尾青年によって再建立されたものである。
又こけむした巨大な、自然石が半分土に埋れていて、僅に表に「日」を表した円形と南無阿弥陀佛の刻字が読みとられる。これは他の神社にも見られるように、法華経一部一石の塔大乗妙典経塔のようなものであろう。
 なお、天満宮より西約100mの市道側には通称三日月さんと呼ばれている、もう一つの自然石があるが、この石の表面には「月」の形が刻まれている。日、月の形が刻まれているこの二つの自然石には何等かの深い関連があるのではないかと想像される。しかし古老の話によれば三日月さんは佐賀戦争の時の戦死者を祀ったものともいわれている。

出典:高木瀬町史P303〜307

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