長瀬天満宮

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長瀬天満宮

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■所在地佐賀市高木瀬町大字長瀬
■年代中世
■登録ID1780

 今から1000年以上前、後一條院の時代、京都の康清法師なるもの諸国巡遊の際寛仁元年(1017)2月14日当地長岡に一泊し、霊夢を見、勅命によって、このところに天満宮を建立し、康清及其の子孫神職として奉仕した。そして神領40町歩と定められ、同時にこの地を長瀬と改称した。
 下って後柏原院は勅願社たるの故をもって、御真筆一巻を寄進せられ、又永正12年(1515)藤原常家、胤眞の両名宝殿の造営を行った。後に藩主鍋島勝茂公も社殿の修造を加えた。
 末社は若宮社を初め内侍天神、天満宮、富士権現など14社ある。この中若宮社は今の西長瀬、八龍大明神は岸川村にある、藤之太輔はフジンタニという地名が残っていて笹藪の中に小さな石祠が残っている。梨本天神は地区のずっと南の方にあったそうだし天神ノ木という地名が残っているのも、この由緒に基くものである。
 康清法師は瑞夢を見てから、長岡之瀬戸を長瀬と改称し、数拾ヶ町を知行とし、その内40町を神領と定めた。
 この康清というのは元来65代花山院の御宇山城国源朝臣三位左近太輔康高という者の子である。花山院御退位御出家し給いし後、彼も天台山にて康清法師となった。その九代目が康一法師である。
 この頃鎌倉より堺亦次郎源眞正というのが当国の代官となって延慶年中(1308)に西下して来て、神領を改め、康一法師の婿となり、初めて、惣之市というのを定めた。後に至って、苗林坊、宮司坊などが社役を勤めた。
康一法師は天台宗の妻帯僧であって、その先祖がこの神社の由来を知っており、先祖の康清の領地を長瀬というのは、彼がこの地を長瀬と改称しこの土地40町全部が康清の知行所であったからである。又彼は北野天満宮の開基であり、後又当社の開基となったから、今は当社を二ノ宮とも申し奉るのである。
さてまた彼堺氏は相州鎌倉北条相模守貞時公の旗本であったがこの時から当国の者となり、後になって龍造寺家の家中となり代々当社の神主となることになった。
 代々の天皇と当社の神主との関連、堺又次郎の系統は由緒書の通りである。
 社内に建立されている布巻観音は元来、筑前国布巻之原という所にあったものを豊後の大伴一族の者が当国肥前北山まで持って来て谷河に打ちこんだ。それが当地の川筋に流れついたのを堺駿河守宗吉という人が、これを取り上げて当社にあがめ建立したものである。
 勅筆の御縁起が御宝殿にある。これはこの社が勅願社であるから御柏原院の時御親筆一巻御寄進あり、又この御宝殿の棟木に御造立は永正12年(1515)とある。又この棟木に、今上皇帝聖躬萬歳とあり、又大檀越、藤原朝臣常家同胤眞代官家光是ハ堺氏河内守でありこの外社役等書き記してある。
 境内には幾多の石祠や小宇がある。まず太鼓橋までの間に、西南隅より自然石々塔、嘉永六年(1853)丑12月吉辰とある菩薩像、最近に建てられたと思われる小宇には、地蔵尊、弘法大師、不動明王が祀ってある。
小さな弁財天と観世音の石祠もある。観世音の祠には、嘉永二己酉(1849)4月吉辰福地与助建之ときざまれている。
 太鼓橋を渡って拝殿に向って左には、三基の小石祠がある。「天満宮」とあるものには、明和二乙酉(1765)11月25日施主原八十次郎元喬、大坪長兵衛備武、前山彦七とあって、明和2年といえば鳥居のできた年と同年代のものである。
 東側には現人さんといわれる大きな自然石の石塔がある。思うにこれは方々で見られる大乗妙典一部一石の塔と思われる。村の迎徳市氏の話によれば、下には法華経が埋められていて、昔から夏の祗園祭の余興にかけ舞台を作るとき、もしこの現人さんに材木でも引きかけるときっとその晩は大雨にたたられたと伝えられている。なお神殿の東北隅には正一位稲荷大明神が祀ってある。
 この天満宮にもこのようにあちこちの寄せ宮、神仏習合の現象が見られる。布巻観音はその最も大きなものの一つである。
 御神前の奉納物としては、ごく古い小形の狛犬一対がある。台石も何もない素朴なこの狛犬の製作年代等一切不明であるが、県内でも珍らしい石造物であって東高木八幡社にも同様のものがある。次に堂々たる上向と下向の阿呍の石像獅子がある。これは明治31年(1898)11月光行寿七氏より奉納されている。尚右側に春日燈籠一基が建っている。これには奉寄進石灯炉天満宮御宝前、寛文十庚戌歳(1670)5月10日 江里 金太○○吉軌と刻まれているが、鳥居の建立された時代よりも100年あまりも前のものであることは注目に値する。
 天満宮社殿の歴史は、最初の御造営が永正10年(1513)であって、その後元和5年(1619)鍋島勝茂公により補修されていることは由緒記によって明らかであるが、それから幾多の変遷があったであろう。ごく最近昭和26年に至って、修繕工事が行われている。そのときの工事世話人、杉町太郎氏の祝詞の中に、元禄13年(1700)改築、天保13年(1842)4月、葦にふき替え、明治43年、時の区長糸山清一郎氏のとき、屋根の差替修繕をしたとある。それが腐朽甚しきに至ったので、区民一同及び篤志家の賛成を得て、更に改修を行うことになった。西長瀬金崎助作氏、長瀬前山為次両氏の工事請負によって、同年7月25日、完成したのである。工事世話係は迎徳市、杉町太郎、千住喜代治、宮原欣次郎、千住輝治の五氏であった。工事費総額 112,000円(これには観音堂屋根葺替1,000円を含む)を要した。財源は境内の松、杉、雑木の売却代、92,000円、その他は篤志寄附浄財である。寄附者名簿は杉町太郎氏書の掲額がある。拝殿並に神殿は約15坪位、すこぶる豪壮である。
 拝殿の格天井には、見事な絵馬96枚が、揚げられている。ほとんど長瀬地区の人の奉献である。光行次郎、石井力三郎などの名前も見える。画家三松という人の画いたのが多いが三松は田原家の人ではあるまいか、天満宮由緒記を書かれたと伝えられる鶴清気先生も画がうまかった。鶴先生は田原家出身であるから、画家の家柄であるとうなづける。
又、三十六歌仙の板額34枚もあげられている。崇敬者の尊い敬神の現れがいつまでも、なくならないように維持されんことを望む。
 長瀬天満宮に関連して西長瀬、法常寺所蔵記録に次の通りのものがある。
  法常寺支配地
一、佐嘉郡長瀬村
  天神敷地  壱畝 本帳除
  若宮敷地  拾歩  〃
  天満宮敷地 壱反九畝十八歩
  長瀬本分ニアリ
  右祭礼 11月25日
一、同郡同村
  古川天神敷地 十六歩 本帳除
  養父社敷地  四歩  〃
  藤之大輔敷地 八歩   〃
 
 

出典:高木瀬町史P145

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