諸富町漁業のはじめ

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諸富町漁業のはじめ

■所在地佐賀市諸富町
■登録ID1566

古い記録では、宝暦3年(1753)、諫早湾の漁場をめぐり、諫早領と佐賀領との間で漁民の紛争があって、佐賀藩の有明海漁民は連署の訴状を津方役所に提出したが、その中に浮盃新津、西寺井津、堤津の諸富町内の地名が記されている。
寛政年間の『幕使佐賀巡見録』によると、「猟師(漁師)は居り候やという質問に、ここより少し隔てた浮盃と申す所と、早津江と申す所に少し居りますと申すと、運上(租税)はと尋ねられ、ありませんと答えたが、重ねて尋ねられたので、左様答えると、結構なものだと仰せられた」と記してある。
また為重の庄屋は、光徳寺(西寺井)で聞かれた折、早津江と浮盃に約30艘いると答え、帆別銀として3艘につき銀4匁5分を納めていると答えている。
浮盃と隣接している東寺井新名から、漁網のイワ(おもり、土垂)が庭・畠から多数出土しているが、中には手作りの、幼稚なものもある。
ここらあたりは少し深く掘ると、かき(牡蠣)、ハイガイ、アサリなどの貝殻が出る、もとは海であった地区である。
寛政4年(1792)作成の佐賀藩の絵図を見ると、浮盃本津の南面に展開する新地搦田があり、ナカボイ(現大五川)があり、搦部落が現在と違わず一筋の道路に面して家々が描かれていて、浮盃新津と記入してある。
伊勢大神宮も記入されて、ちょうど、現在の搦地区の位置に当る。近隣の町村の古老たちは搦のことを「浮盃搦」あるいは「浮盃の搦」と称えるところから、浮盃新津即ち搦であるといえる。
妙光寺(為重)の過去帳から見ると、搦という名の地区の漁業は100年そこそこの歳月と思われるが、同地異名の浮盃新津という名の漁業地区は、前掲の宝暦3年には既に漁業が操業されていたことになり、少なくとも、230年以上の漁業の歴史をもっていることになる。
さらに、搦地区の背後地で漁業が行なわれていたと考えると、諸富町の漁業の始まりは、なお古い歴史があると見ていいだろう。

出典:諸富町史P.1067