村田 若狭

  1. 人物
  2. 人物
  3. 検索結果
  4. 村田 若狭

村田 若狭

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1472

文化11年〜明治6年(1814〜1873)政治家
 久保田邑主。龍造寺政家の後裔。名は政矩、慶吉郎、「西麒」と号す。
深掘邑主鍋島孫六郎の次男で村田家を継ぐ。表高1万3080石、物成4300石を有す。家督を相続直後、邑地の海面を干拓して良田となし、大に民力の扶植に努めた。藩主鍋島直正及び直大の信任を得て常に家士を長崎に遊学させ蘭学を修めさせ郷校を再興し、西洋文物の普及を図った。文久年間には幕府の蘭医ボードインを招き長崎に病院を建てた。種痘を奨励し、銃砲製造所を創立。蒸気船の模型を作り嘉瀬川に浮かべる等科学的研究に熱心であった。明治の初め佐賀藩の執政となり、封土奉還の議を主張廃藩置県に功あり。プロテスタントのキリスト教を信仰し、諸藩の重職にして受洗のさきがけとなった。幕府の命により、長崎警備のため藩から度々出向、同地滞在のフルベッキに英語を学び、家臣が港で拾った英書に興味を覚え読み始めた。従来それは『聖書』であったとされるが、伝道用のトラクトであり、フルベッキは改めて『聖書』を与えて指導すること4年、慶応2年4月6日(1866年5月20日)弟綾部とともに受洗した。藩主鍋島直大も好意を寄せ、棄教させることなく彼を引退させた。その後久保田村に隠棲、漢訳『聖書』の邦訳に励んだ。グリフィスのフルベッキ伝によると、彼は日本伝道は日本人によるべきであると、2青年をフルベッキに託し、将来のキリスト教の発展を祈り、微笑しつつ没したという。
大正4年11月、正五位を追贈された。墓は元小路の大雲寺にある。享年59歳

出典:久保田町史 p.303〜304