新田

新田

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1450

  古村に対して新たに開発された耕地
 新田は、町のほぼ中央部に位置している。新田とは、古村に対して新たに開発された耕地。戦国期以降耕地の開発が進み、古村の耕地拡大による切添新田、持添新田、新たに村の成立をみる村立新田がある。特に江戸中期以降急激な増加をみて地名として残る例が多い。
 貞享4年(1687)改の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に土井古賀村とあり、その小村に新田村が記録されている。宝暦郷村帳(1752)では、土井古賀村の小村に新田村があるが、天明郷村帳(1783)には記録がない。明治七年取調帳では、新田村の枝村に横江村・麦新ヶ江村・福富村・大立野津がある。明治十一年戸口帳によれば新田村があり、戸数55戸・人口261人とある。
  大正時代に道路改修があった
久保田保育園前から南へ県道が通っているが、以前のこの道路は道幅が狭く、曲がりが多かった。堀沿いにあった2つの曲がりが、大正10年頃改修されている。1つは、保育園前の交差点から学校前に通じる所で、改修前は交差点の西側水路沿いを牛島宅の西側へ通り、それから左折して現在の道路へと通じていた。もう1つは、役場前から農協前に通じる所で、以前は役場の南側を左折し、それから南へ通っていた。
 香月政利さんは「子どもの頃、牛島さん宅の西北水路に古い木の橋があったのを覚えている。その頃は、もう人は渡っていなかった」と話されている。この道路を、大正時代には人を乗せる馬車が通っていた。その後、人力車が通うことになり、それから自動車が通るようになった。田中鐡次さんは「子どもの頃、4〜5人で後ろから自動車を引っ張って、運転手さんから怒られたことがあった」と話されている。
 久保田町農協から東に集落があり、この集落の中ほどに林泉山真光院がある。創建は、天文年間(1532〜1555)肥前に君臨した龍造寺隆信が開基し、本尊に不動明王を安置して家運繁栄・武運長久・五穀成熟・地味肥濃を祈願する祈祷道場とした。開山は、盲僧を以ってあたらしめ、天台宗玄清部に所属し、琵琶を奏でて御参りをした。真光院は、15年ほど前から九州36不動霊場第29番札所として、遠くは青森などから参詣者が訪れている。
  新田の氏神様天神社
 中副の土井の古賀から新田の南東に、嘉瀬川堤防へと道路が巡っている。この道路は、旧嘉瀬川堤防跡で以前は集落の東に櫨の木が何本もあり、道路と田んぼの高低差が1間ほどもあったといわれている。また、大立野に通じる主要道路でもあった。
 集落の東で嘉瀬川堤防沿いに、天神社(八の坪)がある。毎年6月25日に例祭があり、殊に25年毎には近郊に稀なる盛大な大祭典が施行されていたという。
 今を去る360年ほど前、例年にない大雨が降り、嘉瀬川の水が激増して、その堤防が崩壊せんとした。全村危機に瀕した時に、村人たちはその御神体を堤防上に安置して、奇跡的にその災難を免れたという。その霊験あらたかなる天神社に、邑主村田家から大絵馬の奉納があったというが、今は知る人もいない。
 山崎吉幸さん(70)は「以前、古老たちから天神社の祭りの時に、舞台がけで旅役者を呼んで大変賑わったことがあったと聞いたことがある」と話されている。天神社は、現在4月に集落総出の祭りがあり、7月には子どもたちの豆祇園が行われている。
 昭和2年、上の学校と下の学校が合併して、現在地に建設されることになった。その時の盛土は、新田の東の堤防からトロッコを引いて地高めをしたという。
 戦前の、この集落の戸数は25〜6軒あり、集落の北で県道側に三角茶屋と呼ばれる店があった。この三角茶屋は、駄菓子などを売る店で、地形の形状からそう呼ばれていた。その他に仕出屋2軒・雑貨屋・文房具屋2軒・饅頭屋・畳屋などがあった。昭和33年、小路にあった役場と農協が火事で新田に移転してきている。

出典:久保田町史 p.694〜696