小路

小路

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1446

  龍造寺政家の隠居地
 小路は、徳万交差点から南へ300mほど下った県道沿いに位置する。明治七年取調帳では、徳万村の枝村に元小路の記録がある。明治十一年の戸口帳によれば徳万村の内に窪田小路とあり、戸数50戸・人口239人とある。
 久保田の領主は、いろいろ変遷を見るが、天正12年(1584)龍造寺隆信が島原沖田畷の戦いで戦死し、その子政家は天正18年(1590)藩政を鍋島直茂に譲り久保田の小路に隠居した。政家の二男安良の時に、姓を村田と改め、代々久保田を治めることとなった。
  素人仁○加も行われた御館社
 5代村田政義の時に、龍造寺隆信・政家・高房(政家の嫡男)の三方を祀って御館社を建立した。御館社は、農業倉庫東にあり、県道側の参道に1基と境内に1基石の鳥居があった。参道から境内にかけて50本以上の大きな桜の木があり、春の花見シーズンには沢山の人々が訪れ、付近の家々には花見の宴の声が響いたという。
 成清虎男さんは「戦後、春まつりの時に、草木田の志波儀六さんの指導で、小路の若い人たちが素人仁○加を4〜5年ぐらいやったことがある。その後、牛津の芝居小屋に出たこともあった」と話されている。また、春には近隣町村から小学校低学年の遠足などもやって来ていた。この御館杜は、昭和50年頃に移されている。
 勢ぞろいする所「勢屯所」
 7代政種の時に、屋敷の北方に新たに勢屯所を設けた。妙鎮寺の南東の県道周辺に広場があり、そこには小さな祠もあったという。勢屯所とは、軍勢を集める所と思われる。成晴ハツヱさんは「何か事ある時に勢ぞろいし、別れの松まで行っていた。と母から聞いたことがある」と話されている。また、本小路は家老屋敷と定め、南・西・北小路は物頭屋敷とし、東小路は平士族屋敷と定めた。
 元小路バス停から、東へ150mほど行った所に大雲寺がある。村田政種は、宝永6年(1709)政家の菩提を弔うため、以前からあった多福庵を改築し、佐賀の龍泰寺14世治節和尚により龍洞山大雲寺を開山した。その後、村田家邑主の菩提寺となった。
 小路とは、大路に対しての小路であり、辞典には狭く細い道のこと。こみちの変化。よこみち。わきみちとある。全国的には、武家屋敷のあった周辺を○○小路と呼ぶところが多い。
 藩政時代この地域には、武家屋敷が多く、元小路(本小路)・北小路・南小路・西小路・東小路などがあった。明治以後集落名として小路となったようである。武家屋敷周辺には、堀(小川)を廻らし、その堀にカワジ(棚地)を作り用水の利用をしていた。カワジとは、佐賀の方言で物を洗う「洗い場」のことをいう。屋敷の北側で堀のそばには、防風林として竹が植えられていた。この竹は、防風林の役目だけでなく、屋根の葺き替えや焚き物などとしての生活必需品としても利用されている。また道路そばに植えられた竹垣は、戦時の矢竹としての役目もあった。
 国道207号線の徳万中井樋から、西へ200mほど行くと県道と交わる道路がある。この道路は、以前は堤防跡と思われる。道路の両側には、大きな桜の木や松の木が並んでいた。以前は、4月になると徳万方面からくる新1年生は、母に手を引かれ、桜の花が咲き誇るこの道路を学校へ通っていたが、圃場整備後に現在のように改良されている。
 この道路の中ほどから、南へ300mほどの道路がある。古老たちは、この道路を「きゃあもとみち(買戻道)」と呼ぶ。藩政時代に村田家に仕えるお女中さんが、徳万町への買い物に利用した道と伝えられている。地元では、この付近の土地を「きゃあもと」と呼ぶ。
  以前は役場や学校があった
 徳万交差点から約500mほど南へ行った道路西側に、天正4年(1576)龍造寺大和守泰長の息女で、隆信公の伯母妙鎮大姉が家運長く輝き、子孫繁栄を願って建立した元昌山妙鎮寺がある。境内入口横には、昭和12年に建てられた頒徳碑がある。これは久保田出身として初の衆議院議員となった石川又八氏の碑である。
  思斉館は天明のころ
 この妙鎮寺から、南へ300mほど下った所に元小路バス停がある。このバス停から更に西へ80m行った道路南に、昭和2年4月に建てられた思斉学館跡の碑がある。思斉館は、久保田邑主10代村田政賢が藩士の教養を高めるために、天明元年以前よりあった学問所を増築した。政賢の嫡男11代領主村田政致は、先代に続いて学問所を改善拡大した。思斉館の創設は、昭和46年発刊の久保田町史では、天明4年(1784)とあり、県教育史では天明8年(1788)となっている。敷地は、約1500坪(約4950㎡)であった。明治10年思斉館を思斉小学校と改め、侍の子弟ばかりだったのを村内の一般の子どもたちが自由に勉強できるように開放された。明治22年に通学距離の関係で横江に小学校の分校が設置されたが、昭和2年4月思斉尋常小学校を廃止し、1村1校として村の中央の新田に移され現在に至っている。成清ハツヱさん(84)は「当時の学校の正門は、現在の県道側から入り、学校の北側には旧小路公民館から西の堀端までレンガ塀があった」と話されている。
  役場は3度小路に
 元小路バス停から南へ100m下った県道東側に、昭和47年に建設されたNTTの電話交換所がある。この地は、以前に村役場があったところである。明治22年市町村制の施行により、元小路バス停東側に初代の役場が建てられている。2代目は、中副の円光院南側に建てられるが、火事で焼失している。3代目は、小路の県道西側に建てられたが、思斉校運動場拡張のため再び移転することになった。4代目は、徳万の中井樋に建てられたが、火事で移転することになった。5代目が大正2年に現電話交換所に新築されるが、昭和31年に火災に逢い新田に移転することとなった。大久保實さん(74)は「昭和24年の大水害の時は、役場の2階に上がる階段の2段目まで水がきた。その時非難してきていた近所の妊婦さんが出産されたことがあった」と話されている。昭和3~4年頃、この役場の南に久保田村産業組合の事務所が建てられた。その翌年には、事務所の南に農業倉庫(籾貯蔵倉庫)2棟が建てられた。その後、4棟が増築されている。産業組合は、昭和23年に久保町村農業協同組合となるが、昭和31年の火事で新田の現在地に移転している。農業倉庫南に、電気灌漑記念碑があった。久保田に電気灌漑が導入されたのは、大正12年のことである。当時は、農業の一大改革だったため、その普及には4~5年は要したという。この記念碑は、昭和の初め頃建てられたというが、昭和53年ごろ水取井樋北側に移転している。石井善次さん(76)は「子どもの頃、この記念碑でよく遊んだことがあった」と話されている。農業倉庫の道路西側に旧薄村田家の御茶屋があった。御茶屋とは、別邸のことである。県道の200m西側で、福島東端から上恒安方面に至る道路を地元では鷹匠路という。藩政時代に村田家に仕えるお鷹匠が、鷹狩りの時にいつも通行していたのでそう呼ばれていると伝えられている。現在は、北田や快万・上恒安方面の児童の通学路として利用されている。この鷹匠路の西側田圃では、戦前から馬で犂を使う競犂会が行われていた。戦後、耕運機が普及してくると、耕運機でも昭和28年から37年頃まで行われている。この集落には、以前はパン屋・豆腐屋・自転車屋・饅頭屋・医者・タバコ屋などがあった。

出典:久保田町史 p.680〜686