町東

町東

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1441

 交通の変化と国道改修で変わってきた
 町東は、久保田町の北東で国道207号線(旧長崎街道)沿いに位置し、徳万宿の中井樋から東の集落をいい、嘉瀬川の西にあたる。徳万宿は、江戸時代の参勤交代街道の宿場として繁栄した宿で、鍋島本藩が長崎警備にあたっていたころは往路、復路とも必ずこの宿で休憩をしていたのである。この休憩所は、現在の鶴丸邸と森山邸の間といわれている。また、この附近には半里塚が置かれてあったが、昭和12年頃の国道改修で取り壊されている。今では、ほとんど知る人もいなくなった。徳万宿は、天明3年(1783)「天明郷村帳」に徳万村の小村として記録され、「明治七年取調帳」では徳万村の枝村として記録されている。「明治十一年戸口帳」によれば、徳万村のうちに「徳万宿」とあり、戸数158戸・人口814人と記録されている。
 村の中に町がある
 いつから町東と町西に分かれるようになったかは知る人もいないが、明治22年村制施行当時は、徳万町東、徳万町西の記録がある。後年徳万を取り除き町東、町西と呼ぶようになったと思われる。この地区が徳万町と呼ばれていたのは、嘉永3年(1850)の野田家日記には「四月二十七日少将様長崎御越、五月六日御帰り、この節は始而徳万町清助宅ニ御小休有り」とあり、徳間の原田利春さん(71)は、「15年程前に古川源吾さん所有の畑で元禄13年徳万町と彫られた石の台座を見たことがある」と話されている。町(まち)とは、往時は人家が密集し、物を商う店が集まったところをいい、徳万町は牛津や三日月・芦刈などから買い物客があり、「村の中に町がある」といわれるほどの賑わいをみせていた。この集落には、呉服屋、仕出屋、茶店、金物屋、床屋、銀行、材木屋、石材屋、綿屋、菓子屋(千鳥饅頭本家など)、蒲鉾屋、桶屋、豆腐屋、醤油屋、時計屋、独楽屋、雑貨屋、米屋、コンニャク屋、造り酒屋(老松)、医院、生糸屋、紙屋、駐在所、ガラ屋(燃料)、そうけ屋、質屋、八百屋などがあり、土手の山田商店は人力車の寄場であった。
嘉瀬橋は急な登り
この集落の東に嘉瀬橋がある。嘉瀬橋の記録は、延宝9年(1681)佐賀藩主鍋島綱茂のとき、廻国上使に差し出した書付に「嘉瀬川・広さ五十間下砂橋有」とあり、すでに橋が架かっていたことを知る。この嘉瀬橋を上がるには、登りが急で荷車を馬車引きさん達が3、4人協力して上がっていったという。同集落の古賀信行さんは、「子どものころ、馬車が後ずさりしないように石を持っていって、小遣いをもらったことがある」と話されている。鶴丸ミキさんは、「夏は、嘉瀬橋に夕涼みにでていった。向こう岸にはお月さん茶屋があり、橋の上は暗かったが『かんたろうあめ湯』が売られ楽しみでもあった。また、嘉瀬川はきれいな水が流れ、川底は砂地で、子どもの頃はいい遊び場だった」と話された。嘉瀬橋の坂を下った道路北側に若宮社がある。祭礼は旧暦の6月13日で、豆祇園であった。戦前は、舞台掛けの狂言が行なわれたり、夜店が出たこともあった。また、中井樋の南に太郎次郎社があり、町西の東側と町東の西側の数班が氏子で、祭礼は旧暦6月14日となっていた。現在は、若宮社が7月の最後の日曜日で、太郎次郎社が8月の最初の日曜日となっている。若宮社の隣に村田家の御茶屋があった。藩主や上使衆の休息所として利用されていた。現在の西佐賀水道企業団の敷地である。徳万町は、交通事情により徐々に変化してきた。昭和12年の国道改修、この頃は大型バスがやっと通れるくらいの道幅であった。次に昭和24年頃に行われ、近年は昭和37年に嘉瀬橋の架け替えとともに行われている。この国道改修で住家の移転が行われ、次第に商店や住家が減少し、車社会の進展とともに徳万町も以前のような活況は見られなくなってしまった。

出典:久保田町史 p.666〜668