猟師ケ岩の秘話

猟師ケ岩の秘話

■所在地佐賀市三瀬村
■年代古代
■登録ID1326

 猟師ヶ岩は、三瀬景勝の一つに数えられている鬼ヶ鼻岩の西北峰にあり、東は唐人舞岳(腹巻山)、西北は井手野山・栗原山に拠って村の東北面に屏列し、頂上はみな佐賀・福岡の県境をなしている。
 標高893.4m、周囲約10㎞で、東北を望めば筑前一帯を眼下に尽し、南を遠く望めば有明の海・阿蘇の噴煙を遥かに眺めることができる。
 全山岩山が屏風のようにそびえたち、頂上よりも少し下方の西にあたって洞窟があり、その奥行約3.5m、夏季に至るまで氷柱が垂れていることもあるといわれ、奇岩千丈の絶壁は人の肌を寒くし、往古は脊振山に籠った修験者の心魂を鍛練する道場にされたと伝えられている。
 陽春には、全山に石楠花や躅花の花が咲き盛り、秋ともなれば、木々の紅葉が全山に色映えて、昔は雄鹿の妻恋う声も風に和したといわれている。
 この岩山一帯には次のような伝説が残されている。
 猟師ヶ岩山は、もと「機の山」と呼ばれていた。その頃、都からやって来た隆信沙門という道心堅固な憎が、修行のために脊振山に入り、坊所を建てて隆信寺と名付け、そこにこもって念仏三昧の日々を送っていたが、里人の間に不審な噂がたっているのを知った。
 それは「機の山の頂に白気が立つと何かの凶変が必ずおこる。この間その白気が立ち登ったので、いまに飢饉か疫病か天変地異などのわざわいがおこるにちがいない。」という里人の心配する声であった。
 隆信沙門は、これには何か深いわけがあるにちがいない。真実を猟師ヶ岩(機の山・隆信ヶ岩)の頂上みきわめて里人の不安をなくしてやらなければならないと思い、機の山の南麓に草庵を結んでそこに移り住み、頂上の岩山に発見した洞窟にかよいながら座禅読経を続け、悪魔退散、国土隆盛、衆生皆楽、無病息災を念じた。それ以後、機の山を隆信ヶ嶽とよぶようになった。
 沙門はこの修行中、山頂に大きな石碑を発見した。碑面の苔を払って洗い清めてみると、正面に「東居宮」の3文字があり、その下に霊亀二年(七一六)としるされ、側面には「皇44代元正天皇霊亀2年5月 従勅命一品舎人親王建之」と刻まれていた。東居宮というのは瓊々杵尊のことである。
 舎人親王は養老4年(720)に「日本紀」三十巻・系図一巻を撰上した人々のなかの一人で、同年知太政官事に任ぜられた方である。
 隆信沙門は、歴史にくわしい舎人親王が瓊々杵尊の碑をこの地に建てられたのは、天孫御降臨のとき、もろもろの神々がここに集まって神謀りをされたからではあるまいかと推量しながら洞窟に入り、しばし目をとじて遠い神世の昔をしのんだ。
すると不思議や、天孫瓊々杵尊の降臨されるときの状景が、夢ともみえず現とも思えず幻となって目のあたりに見えてきた。それは、諸々の神々が、神集いに集い、神計りに謀って、荒ぶる神々をことごとく海外に狩り出す手筈をきめられる重大会議の場面であった。
 会議が進んでいるとき、神々の中から美女の姿をした一人の妖魔があらわれて「吾は天地の未だ開けぬ昔からこの土地に住んでいる。吾はこの地を絶対に動かない。」と叫んだ。
そこで再び神計りに謀られたところ、他国のことよりも我が国のことが大事であるにはちがいないが、神のみそなわす天が下の蒼生(国民)はみな人の子、自国異国の隔てがあってはなるまい。このような妖魔の出る国には必ず禍いがおこるであろう。妖魔は異国に追放するよりも、この地に埋めて、長く世に出ないようにすることが望ましい。という結論に達して、妖魔はこの筑紫の山の岩窟に埋められることになった。
 美女の妖魔はいまわのきわに「この神国も澆李の世(道徳人情のすたれた世、末世)となれば、親は子を殺し、子は親を殺し、臣は君を弑するような乱世となるであろう。そのときは、吾はまた美人と化して世に仇をなしてやる…」と声高く叫びながら埋められていった。
 隆信沙門はこのときハッとわれにかえり、
 さては、いまのは夢であったのか。それにしても、あまりにもはっきり見えたのは、神仏の何かの啓示ではなかったろうか。神世の昔から悪魔は降伏されてきたが、澆李の世となれば悪魔が美人の姿をして出現し、世に仇をなすという。
これは容易ならぬことであると、さまざまに考えながら、急いで草庵にもどったが、その夜は大熱を発して床についた。
 このことがあってから、隆信は万部経文読誦の修行にはいったが、九千部の経文読誦中に美人が現われ、様々の媚態をこらして沙門を誘惑したため、沙門はついに邪念をおこし、修行は不成就に終ってしまったという。
 隆信ヶ嶽と呼ばれるようになった機の山は、その後、長暦年間(1037)になって、さらに龍神ヶ嶽と呼ばれるようになった。その由来は「脊振山記」に詳しいが、ここに略述すれば、
 「印度国南天竺、徳善大王の第15王子が生まれて7日目に行方不明になられた。大王夫妻は悲嘆にくれておられたが、釈尊18代の祖師、龍樹菩薩のそなえた天通眼によって、王子は扶桑国(日本)の西部、肥前国脊振山に垂迹(神として仮に現われること)しておられることがわかった。大王は非常に喜ばれ、自らも、ともに衆生を教化しようと考えられ、御后ならびに14人の兄王子たちを同伴して、龍樹の神通力をそなえた龍神と龍馬に乗り、刹那の間に肥前国の脊振山に垂迹された。
このとき、大王と御后が神の姿で現われたのが、乙宮山の護法善神と上官の弁才天である。また、この山の東西に陰陽二つの岩があるが、東方の岩は護法善神の乗り給うた龍馬が石に化したものであり、西方の岩は龍神が岩山に化したものである。云々…」
 というのである。こうした伝説が一般化して、隆信ヶ嶽を龍神ヶ嶽とかきかえられるようになった。
 ところが、こうした伝説も時代が移るにつれて忘れられ、のちには猟師ヶ岩と呼ばれるようになった。
狩猟を生業とする猟師たちが龍神ヶ嶽の洞窟を利用するようになったからである。
 脊振連峰一帯には、昔は猪や鹿が多く棲息していた。これらの動物が峰渡りをするときの「けものみち」が、この洞窟の前を通っていた。猟師たちは、この洞窟の中に待機し、けものみちを通って来る猪や鹿を射獲ったのである。
 しかし、後にこの猟師ヶ岩の洞窟では、不吉なことが多く、寒中にミミズ・蝦蟇(ひきがえる)・大蛇が現われたり、魔神が出たりするというので、ここで狩猟をするものはなくなったと言われている。
 猟師ヶ岩の南麓入口の路傍に石祠が祭られ、神像が安置されているが、祭神の名は、隆信−龍神−猟神と時代とともに変遷してきた。
 現在は神像の頭部がなくなったままになっている。この像はしばしば行方不明になったが何時のまにか戻ってきて、もとの座に安置されていたという。何者かが祈願のために借りてゆき、満願成就の後に返却したか、あるいは、盗んではみたが不吉なことがおこるので、恐れをなして、もとの座に戻したかの何れかであろうと言われている。
 現在、猟師ヶ岩の南麓入口を「りゅうがみぐち」と言い、隆信沙門の住した草庵のあった地を寺谷と呼んでいる。草庵はのちに梅渓庵と号し、中鶴の梅谷山円光寺の旧庵であった。戦国時代の勇将神代勝利が新次郎とよばれていた頃、北山々内で武術師範をするためにこの梅渓庵に寄寓していたこともある。
 猟師ヶ岩山にかかわる伝説は、後で述べる猟師山本軍助の話がある。その外、嵯峨夜桜化猫伝には、鍋島家に仇をなした化け猫が、この機の山(猟師ヶ岩のもとの名)で育ったとされていて、美女と化した妖魔の伝説を素材にとり入れた物語になっており、また、龍神や隆信寺の文字が、戦国時代に北肥の山野で雌雄を争った両将、龍造寺隆信・神代勝利の姓名に配されているのも、偶然のこととは言え、不思議な縁につながっているように思われてならない。

出典:三瀬村誌p.653〜656