法身山 養行寺

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法身山 養行寺

■所在地佐賀市三瀬村中村
■登録ID1307

昭和25年北山ダムの建設にともない福岡市博多区博多駅南3丁目18−28へ移転した。『同寺由緒』によれば
 杠山字丸田村宇土に在り、古は法淋山養行寺と称す。開山を守谷禅師を以って祖とす。守谷禅師事、人皇5代清和天皇6世孫新羅三郎源義光を祖とす。義光3世孫武田冠者信義17世孫甲斐国大守武田晴信入道信玄、その子義信、信親(龍芳)、勝頼、織田氏の為に天正10年(1582)3月天目山之戦に敗れ、いまだ幼かりし守谷次右ヱ門長信は難をさけて比叡山現々庵靈空上人の袖下に入り仏道を修業し、父祖の靈を弔いしが自力小乗の悟り難きを知り、諸国を行脚、肥後国延壽寺の名僧月寛の門に入り大乗の奥儀を極め、杠氏の所縁を求め杠山に仏浄の地を見立て、宇土に法淋山養行寺を建立し(後法身山と改号)衆生を済度す。姓守谷を森谷と改む。開山当時は台宗なりしが(曹洞宗・清久庵ではないかとも推定)関ケ原戦後真宗に改む。とある。
 『一向宗由緒』によれば開山は了琢となっているが「長崎県庁差出」では万治2年正善開基としていてくいちがいが見られる。『一向宗由緒』より以前とみられる『延覚寺文書』 では開基を正善とし2世を善従、3世を了琢と記している。
 『一向宗由緒』は公書であるから正しいとみるべきであるが、この違いは開基はやはり正善とみ、了琢を開山としているところから、この時真宗に改め山号を法身山としたのであろうと思われる。
 上のようなことで一向宗の届出を開山了琢、2代了海としたのではないか。以下『延覚寺文書』により住持代々を記すと
  開基正善 2世善従 3世了琢(開山改真宗)
  4世了海  5世香月 6世泰山
  7世達道  8世琢円
 となっていて、無住の時代もあったようである。

出典:三瀬村史p738