常楽山 延覚寺

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常楽山 延覚寺

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■所在地佐賀市三瀬村大字三瀬2430
■年代近世
■登録ID1304

三瀬にあって最も早く浄土真宗の寺として認められているのは延覚寺である。
 慶長元年(1596)2月僧教西(『延覚寺文書』では教清となっている)開基、三代永賢の代慶長16年(1611)5月16日に本願寺より木仏(本尊阿弥陀如来)が下され、永賢坊と坊号を拝受している。「金蔵寺正智」 の自筆副状が現存しているのに4代純誓代、寛永12年(1635)10月5日、坊号を願い替えて「延覚寺」となし山号を藤原山と称している。(山号は明治時代頃に常楽山になったと言われている)
 幕藩体制の中で次第に本末関係が強化されて行く模様が過去帳の中にきざまれていて(僧の階位)現在地(大字三瀬字原の谷四230番地)へ移転する頃(天保初期)、京都堀川受左衛門作の社寺籠の銘、天保10年巳亥(1893)からみるとき、このかごが求められたのは多分に「願正寺中末寺」としての整えをするためではなかったかと思われる。何時設けられたのか不明だが境内地の中に鍋島内庫所が明治初年(廃藩置県後)まで放置されていた。
 天保銘の半鐘には「藤原山願正寺掛所」と刻まれていて、延覚寺が別称「北山願正寺」と呼ばれていたことが理解される。
 天保差出しの『一向宗由緒』によれば、「高源院の位牌」を安置している。寺紋は鍋島杏葉で12代は願正寺からの養子「六位」(官名がそのまま自名としてつかわれている)である。千栗の領主山城家から嫁して来たり、16代樹心には蓮池鍋島家から輿入れをしている。
 鍋島直茂は本願寺への恩返しとして願正寺を建立したが、勝茂以後は幕府の元和の社寺法度にはじまる宗教の統制をうまく利用しながら、尚進んだ形の治民の方策として、おもな社寺との親緑関係を結ぶことによって、自然の中にそれを考えていたのではないかと思われる。延覚寺はそのよき例ではなかろうか。『一向宗由緒』及び十世慈門自筆文書と過去帳によれば延覚寺の系譜は下の如し。
一、神埼郡下藤原山、
  願正寺中末寺 延覚寺
  号 藤原山(現常楽山)
  法官 国絹袈裟
 御持仏并高源院様御位牌、先祖より安置仕来候。
 滅罪門徒 238戸
  開基 教西(慈門自筆では教清)
  第 2世 玄海  第 3世 永賢(木仏、坊号御免)
  第 4世 純誓  第 5世 純徹  第 6世 純應
  第 7世 純説  第 8世 純結  第 9世 純慶
  第10世 慈門  第11世 恵聊  第12世 六位
  第13世 真道  第14世 顕麗  第15世 僧詮
  第16世 樹心  第17世 正真  第18世 徹雷
 尚、延覚寺には「原計」氏夫妻によって昭和49年11月吉日梵鐘(135貫)が寄進されている。
    寄進趣意銘下の如し。
 衆生無辺誓願度 煩悩無盡誓願断
 法門無量誓願学 佛道無上誓願成
 中鶴具座に生る、幼少より偽縁深き育てを受く、17才にして海軍に志願、第二次世界大戦に従軍、戦後自衛官として任を果しつつ今日に至り、退官を間近に望む他郷にあって故郷を偲ぶ時、今われ健在なるは仏・祖・神明の冥加と社会の恩恵によることを、諸々の恩を報ぜんがために有縁・無縁の霊を追悼し郷土生誕の地が梵鐘の音に和して、仏道の繁盛と共に恒久に平和であらんことを祈念し併せて父母深厚の恩を謝す。

出典:三瀬村史p735

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