向合い観音

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■所在地佐賀市三瀬村床並
■登録ID1268

向合い観音は、国道263号線の南の村はずれ、大和町との境の向合い峠にまつられている。この峠の道は、むかし、奥山内(三瀬村)から佐賀方面へ出入りする旅客の主要な往来とされ、北の出入口三瀬峠とともに旅客難塗と形容されていた。長雨・日照り・降雪の時季には旅客が難渋する道であったからである。旧道はいまの国道よりも高めのところを通っていたので、観世音は路面からあまり高くない位置の西側木陰に東を向いて座していたが、国道になるとき路面が切り下げられたため、いまでは路面よりもずっと高い切割りの上にあり、参詣する人のために、梯子を立てかけたような細長いコンクリートの階段が設けられている。
 道路の東側には、国道開通記念碑が建てられているが、その右上(南側)杉林の端の草むらの中に、古ぼけた3つの小さな石の碑が、西を向いて立っている。この石の碑と観世音が道路をはさんで向き合っているので向合い観音と呼ばれ、この峠を向合い観音峠または向合い峠というようになったという。
 この観世音の由来について、古老の伝承によれば、戦国時代に肥前国主龍造寺隆信と北山内の驍将神代勝利が、たがいに勢力を争ったとき、隆信は大軍を擁して神代勢と戦ったが、1勝1敗をくりかえすばかりで、なかなか雌雄を決することができなかった。そこで隆信は謀略を用いて、戦かわずに神代勝利を亡きものにしようと考え、三養基郡綾部城主(姓氏不明。以下綾部氏とかく)ならびに神代氏に従属している鳥羽院城主西川伊豫守の両氏と密約を結んで味方につけ、神代勝利殺害をくわだてた。
 伊豫守は、ひそかに山内の同志を募ろうとしたが、そのことがかえって禍いし、謀判の企てが事前に露見してしまった。
 それとも知らない伊豫守は、永禄5年(1563)9月9日、恒例の重陽節句参賀のため、何食わぬ顔をして三瀬城に登城した。参賀の式礼もすみ、祝宴がまさにはじまろうとするとき、ときを計らって満を持していた神代氏側近の武士たちに取り囲まれ、必死の抵抗も空しく、滅多切りに討ち果たされてしまった。
 神代勢は間髪を入れず伊豫守の本拠鳥羽院城ならびに同じ一派と目された腹巻城を急襲したため、両城ともにひとたまりもなく陥落し、城内のものはほとんど戦死した。
 このとき、謀議のために鳥羽院に来ていたといわれる綾部氏は、血路を開いて逃げのびようとしたが、道を暗まして向合峠にさしかかったとき、神代勢の伏兵に発見されて討ち取られたという。
 定かではないが、峠にある三つの石碑は、討ち取った綾部氏主従を埋葬して立てた墓碑ではないかといわれている。
 綾部氏が討たれたあと、一人の女性が向合峠西山の麓に庵を結び、仏門に帰依して念仏三昧に入り、その菩提を弔ったといわれ、その屋敷跡も現存し、地名を比丘尼田と呼んでいる。 
比丘尼の亡くなったあと、峠近くには幽霊が出るという噂がたち、不思議なことに峠を越す人々や牛馬の事故が頻発し、いつまでたっても災いがあとを絶たなかった。
 200余年も絶った後々まで噂は消えず、事故が起こるたびに、これは死霊のたたりであろうと、人々におそれられた。観世音はこの迷った霊魂を鎮めて災いを除き、峠を越す人や牛馬の安全を守っていただくためにまつられたもので、道路東側の三つの石碑に向き合わせて西側路傍同高の位置に安置され、人々はこれを向合い観音と呼んだ。
 観世音の石祠には、
   安永九年庚子
    十二月吉日
   施主 杠山
    横尾久左衛門
と刻まれている。元来、観世音は大慈大悲の徳をそなえ、世の人の求めに応じて、その苦悩を除き解脱を与えるといわれている。三瀬村内では古くから観世音信仰が一般に広く普及していたとみえて、ほとんどの部落内に観音堂が建てられ、木彫りに金箔をほどこした観音像が安置されているが、向合い観音は石祠の中に石の観音像が安置され、しかも村境に鎮座されているところを見ると、前記由来のとおり、道路の安全を守る道祖神や馬頭観世音のような役割をも果たすものとして信じられてきたようである。

出典:三瀬村史p674

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