古賀 明之助

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古賀 明之助

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1185

古賀明之助は明治13年10月30日、古賀政房(通称秀一郎)の長男として、東与賀村大野に生をうけた。佐賀中学校に進学してのち、福沢諭吉先生を私淑して慶応義塾へ進んでいる。
彼は陸軍工兵曹長として、日露戦役に出征し戦功をたて勲七等に叙せられた。その後農業のかたわら公共事業に奔走し、東与賀村在郷軍人分会長となり、また所得税調査員に当選すること4回、相続税審査員任命2回、土地賃貸価格調査員等をつとめている。当時村内きっての有識者で信望も厚く、昭和4年3月佐賀県議会議員に当選した。この選挙は飯盛から富吉景行が同じく政友会から出馬し村を二分する厳しい選挙であったが、幸い両名とも見事当選した。
彼が属した民政党は当時においては野党であったが同年12月県議会で、八田江改修5か年計画の早期着工を迫り、更に広江下18町(2㎞)に予定された樋門を漁家の要望にこたえ上(かみ)へあげるよう要望し、現在の八丁樋が設置された。昭和7年、佐賀県立商船学校廃校問題では、富吉議員と超党派でその存続を訴えている。即ち日本海軍発祥の地に県立商船で30年の歴史を有する学校をもっていることは県の誇りであり、卒業生600名が国家海運界に活躍し、多額の送金が家族のもとになされている事実を所得調査員の経験からのべ、廃校は千慮の一失であると、早川知事に強く存続を要望し、更に海運不況を理由に廃し悔を後世に残すことを憂えている。県議は2期昭和8年3月までつとめている。
その後川上鉄道の社長などに就任して、佐賀市及び周辺の交通開発に貢献している。趣味は宗教面の読書で、在家としては珍しい仏道の域に達した。後は居を佐賀市多布施に移し行年66歳、心静かに昭和20年1月30日に大往生した。

出典:東与賀町史p1245