野田 甚三郎

  1. 人物
  2. 人物
  3. 検索結果
  4. 野田 甚三郎

野田 甚三郎

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1180

村立尋常興文小学校の初代校長野田甚三郎は、佐賀市蓮池町の某家より住吉区野田サダの婿養子となり、野田家を受け継いだ。子宝に恵まれて徹・常雄・春吉・良方・由子・達雄等5男1女の父親となった。彼の性格は温厚篤実で真面目、優しさといたわりの温情味が溢れていた。身体も至って強健で大柄ではないが、ずんぐり型病気知らずの健康体の持主であった。つるつるに禿げた頭・丸やかな顔の中に八の字の濃い髭があったが、いつもにこやかな口元の微笑みが幾百の教え子や幼児達の敬慕のまとであった。
彼は若い頃から「教育家」を志望したが、当時のわが国はまだ学校の制度がなく、各町村や村落毎に私塾が行われていた。漸く明治18年になって最初の「小学校令」が公布され、実久・住吉・飯盛等の塾が合併して「村立尋常興文小学校」の名称で開校することになった。学校の位置も村全体のほぼ中央(現在の中学校付近)とし、当時としては立派な92坪の平屋校舎を新築して発足したのである。この時の記録によると「明治22年古賀助作が村長となり、同年7月15日」に盛大な開校式を挙行している。その時の職員は訓導兼校長の野田甚三郎・訓導小石敬作・雇教員大坪忠節外に3名で、生徒数225人(男165・女60)であった。ところが校舎の位置問題の争いで実久校を分教場にしたり、教室1棟を新たに増築した。
かくて明治25年校長を退任したが、同41年には再び第3代校長に任命された。一つの学校に2回にわたって校長の要職に就任することは珍しい事で、いかに彼が村民の信望を厚くし、生徒の敬慕を集めていたかが証明されるのである。
大正5年3月に退職し、昭和16年5月故郷の住吉新屋敷で病気(首腫瘍)となり死去した。行年79歳であった。
法名 徳翁良範居士

出典:東与賀町史p1238