梅田

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■所在地佐賀市東与賀町梅田
■年代現代
■登録ID1137

梅田は昭和12年から15年の頃まで戸数僅かに4・5軒に過ぎず、家屋の位置によって搦北・中割・今町の各字別に所属していた。終戦後は外地からの引揚者や今町その他の村からこの土地に移住して来た。かくて昭和25年の頃は、「搦北」の名称となり戸数も20戸から30戸近くに増加した。昭和34年1月、当時の村長故碇壮次の頃「搦北」を改称して、新しい「梅田」という字の命名式と共に、新築成った公民館で盛大な竣工式が挙行された。ここに「梅田」という新しい邑が誕生したのである。
この梅田の地形は南北に細長く、東部を八田江川に面して川副町広江と相対し、北は今町、南は搦に近接している。この「梅田」という村名については、次のような因縁がある。即ち昭和33年4月当時の区長山田耕平(町議会議長)がこの村落の青年たちに自宅に集まって貰い、その名称について無記名での募集をしたのである。この時面白い名称が出て来たがその中で「日の出」「朝日」「梅田」の三つが一番上位に浮かび出た。この三つを更に慎重に詮議したが、その中で新宮に天満宮を祀ることに決めていたことから天満宮に最もゆかりの多い「梅田」という名前が決定したのである。その名付親は、西村宗太郎(広江に居住)であった。
区長は、初代=小柳政七、2代=三浦栄治、3代=宮副武一、4代=高柳重三郎、5代=山田耕平、6代=北村豊を経て第7代の吉田謙一郎に至っている。世帯数は37であるが、水産業が一番多く9、次にサービス業6、公務員4、その他製造業・卸小売・運輸通信・教職等で、農業はただ1戸に過ぎない。
梅田と広江との間を流れる八田江は、元は随分広かったが、大正13年の頃は渡し舟であった。この渡し舟も1艘だったので、両岸よりこの船に綱をつけて置き、渡りたい客人がこの綱を引っ張っては川を渡ったものである。現在の橋がかかったのは昭和35年の頃でこれに依って、東与賀と川副との交流がはじまり交通上、産業上その他日常生活にも非常な便益を被った。もともとこの梅田の土地は、八田江改修の際泥土の置き場として積み上げられ、その後は堀と提防の中間に広い埋立地を作った。この埋立地が戦後になって有償登記されて、新開拓地となったのである。

出典:東与賀町史P1186