立野

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■所在地佐賀市東与賀町
■年代近世
■登録ID1099

立野は東与賀町では東北の端に位置し、東は八田江を隔てて川副町に、北は本庄町に境をしている。貞享年中(1684〜1687)の郷村一覧には、立野村の小字に「新ヶ江」が記載されているので、少なくとも400年前にこの村はできていたであろうと思われる。「立野」という村落名はどうして生まれたかは明瞭でないが、山口恵一郎の『地名を考える』の説によると「湿性」を表す語として、「野」や「沼」が極めて多いとのことである。この村落も湿地帯即ち干拓により生まれた地名と考えられる。また「野っ原に家が立った」とか、「野の中にしっかりしたものを立てる」等とも想像されるのである。
この北西部の徳富団地の新住宅は、昭和49年から出来たもので、末次~中島線の道路が昭和30年に完成し、昭和41年には中島~立野線が落成開通した。更に立野より船津への道路も完成して、東与賀東部の村落と本庄町周辺との交通運輸の便は非常によくなった。
この集落の特徴は、本県における「水田酪農」の開祖ともいうべく、その創始者はこの村出身の故袋正美と下飯盛の故渕田儀一等である。この二人は昭和初期における佐賀県酪農揺らん時代を形成しており、その業績について『佐賀県酪農二十年史』に詳しく記載されている。酪農の外農家の副業としての叺(かます)織りが盛んであった。これは終戦後の昭和23年頃から急激に高まり、38年頃が最盛を極めた。当時の村長故山田八郎、農協専務増田嘉一や中割の吉村竹次等の指導督励もあって、その生産高は年間30万枚に達し、当時村の副業収入は倍加した。その基礎を固めたのはこの立野である。
この村の東部八田江の濁流に沿って古刹(こさつ)の長泉寺があるが、その創立は寛永5年(1628)とある。現在も坂田小路とか六蔵小路の名称が残っており、井戸掘りの際には必ず牡蠣がらが出てくるので、昔ここら辺りは海岸だったことが証明される。
この地区は東与賀町内でも最も地面が低い上に、八田江の堤防にさえぎられて、集中豪雨ともなれば、全村の水量が集まる。したがって縦横の堀(クリーク)があって、いわゆる環濠集落の典型的なものである。

出典:東与賀町史P1152