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鯛えびす
飲食店がひしめく東魚町の中を流れる裏十間川にその名も「恵比須橋」がかかっている。 その橋のたもとに座するのがこの「鯛えびす」である。 この像は、実は横を流れる川底から見つかったものを地元の町内会の人達が再興し、丁重に祀っている。昭和30年頃までは「かっぽう組合」が主になって御祭りを行いそれに参加する子供達は、その日は学校を早退ができるほど賑わっていた。 同じ東魚町にある「ゆめこいえびす」の原型となったもう一体の像もこの川底から出てきたものである。
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石田一鼎
寛永6年(1629)〜元禄6年(1693) 石田平左衛門実之の嫡男として、佐賀城下多布施(現在の多布施1丁目)に生まれた。幼名兵三郎、通称神左衛門のち安左衛門と改めた。神儒仏三道に通じ、17歳にして藩主鍋島勝茂に近侍し、29歳の時2代藩主光茂のお側相談役としても仕えた。 寛文2年(1662)一鼎34歳のとき、光茂の怒りを買い、禄を召し上げられ小城藩にお預けの身となり、西松浦郡山代郷に幽閉された。七年後許されて佐賀郡平野に帰り、のち同郡下田(大和町梅野)に閑居し、この時下田處土と号した。延宝5年(1677)剃髪して一鼎と号した。 葉隠の口述者山本常朝が一鼎と交わりがあったのは、一鼎が、すでに50の坂を越えた下田處土と号していたころと思われる。湛然和尚と共に、山本常朝にとって人間形成の上に大きな影響を与えた。 65歳で没した一鼎の墓は、閑居の地、下田と佐賀市与賀町の水月寺にある。水月寺は、石田家累代の菩提寺である。下田祠堂の墓には、梅山一鼎處士、水月寺の墓には、碑面仏像のかたわら「無得軒梅山一鼎願渓愚璞庵主」としるされ、どちらも妻室円室貞固大姉と法名が並び刻まれている。 著書に「要鑑抄」「日峯公(鍋島直茂)御壁書二十一箇条註」「泰巌公(隆信)譜」などがある。